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コラム「Circuit 07」青池憲司

第43回 ハルハ紀行日録(19)/戦場東岸にて・続
2007.11.18
写真1 日本人5人、モンゴル人4人,地蔵、標、観音
写真1 日本人5人、モンゴル人4人,地蔵、標、観音

 8月1日。真昼。陽は中天にある。地は全方位360度、天が下にかくれるものとてない。
 「ノモンハンの周辺は、どこも渺茫として果てしがなく、道といえばどこでも道、道でないといえばどこも道でないが、草原や砂漠の上を、トラックで走れないことはない。ところどころに砂の吹きだまりが出来ているので、それに車輪をとられさえしなければ。草原はどこもかも見通しで、こんな場所で戦争をしたら、犠牲者が際限もなくでるだろう、と思われた。」(伊藤桂一『静かなノモンハン』/『序の章・草原での戦い』)。

 犠牲者は際限もなくでた。死者だけにかぎっても日本軍1万8000人、ソ連軍8000人というデータがある。前者の数字は、1966年10月に靖国神社でノモンハン事変戦没者の慰霊祭が行われたときの新聞報道、後者の数字は、シーシキンの『ノモンハンの戦い』に表れている。その草原に、わたしたち7人とネレバートルさん、国境警備隊兵士、そして、慰霊の標、地蔵、観音は立ちつくしている(写真1)。みんな思いおもいに。空は高く蒼い。

 ネレバートルさんがガル青年の通訳で話しかけてくる。「日本人の戦没者慰霊団が毎年ここへやってくる。ロシア人とモンゴル人の一行もやってくる。ことしも日本人の一行は8月の下旬に、ロシア人たちは9月中旬にくることになっている。調整しているわけではないが彼らが遭遇することはない」。日本人は国でのお盆をすませてからノモンハンの慰霊に、ロシア人とモンゴル人たちは戦闘行為が停止した日(9月16日、それは彼らの勝利が確定した日でもある)ハルハ河戦争の地に、それぞれが意味のある日々を選んで訪れるのであろう。日本からの慰霊団のなかには、80歳代後半から90歳代の元陸軍兵士の方が数人いるそうだ。これにはおどろいた。日本からウランバートルまではともかく、ウランバートルからチョイバルサンまでも飛行機だからよしとしても、チョイバルサンからスンベル村(ハルハ河畔)まで、約350キロメートルの草原を車に揺られてくるのは、これはたいへん難路難儀である。そうまでして、元兵士たちがこの地へ足を運ぶのは、死んでいった、殺されていった戦友たちの鎮魂のためであることにちがいなかろうが、それ以上のなにかが、彼らをして、時空を超えて日本とノモンハン(ハルハ河)の戦場を往還させているのだ。それは、ひとつには、歴史となった事実(自軍上級将校の拙劣無能な作戦と指揮=バカな隊長敵よりコワイ、それによってもたらされた将兵のおびただしい戦死戦傷)の当事者としての自覚(わが忘れなばたれか知るらん)であろうと推測する。日常と旧戦場を往還する行為から、ノモンハンは終っていない、という意思がつたわってくる。

 それにしても、とネレバートルさんがいう。「この戦場で死んだのは日本軍兵士だけでなく当時の満洲国軍の兵士もいるのに、彼らの慰霊にくる中国人はいないし、日本人も満軍兵のことはなにもいわない、どうしてだろう?」。ネレバートルさんの、感想とも問いかけともつかぬこのことばには意表をつかれた。日本人は日本の兵隊さんの死だけを悼むのか? ノモンハン事件(ハルハ河戦争)を戦った軍隊には満洲国軍の兵士もいた。満軍兵士たちの戦闘と戦死戦傷のじっさいを当時の日本人はどのようにうけとめていたのだろう? 国民の多くは、彼らに対して自覚的な認識をもたなかった、いや、もちえなかったのではないか。為政者も大衆も、満洲の広大な土地と資源は視野のうちにあったが、そこに住む人びと(中国人、朝鮮人、モンゴル人)のことは思慮のそとであった。その当時、「五族協和」というスローガンがあった。日本が中国東北部と内モンゴル自治区東部につくった満洲国(1932年〜1945年)の建国理念である。この地に住む五族(漢・満洲・モンゴル・朝鮮・日本)が手を携えて、みんながたのしく暮らせる国をつくろう、という趣旨のものである。実態はもちろんそれとはほどとおく、全人口の2%にすぎなかった日本人がほぼ90%の中国人と朝鮮人、モンゴル人を武力で支配した満洲国に“多民族共生”など存在すべくもなかった。五族協和は偽であった。そして、満洲国が日本国家の傀儡であったように、満洲国軍もまた日本陸軍(関東軍)の操りであったといってよいだろう。満洲国軍の死んだ兵士たちは、いまどのように遇されているのだろうか。

 ハルハ河戦争(ノモンハン事件)は、あらためて書くまでもなく国境争いの戦争であった。ハルハ河(ノモンハン)は、対馬海峡を越え、東シナ海を渡り、朝鮮半島を蹂躙し、中国大陸を席巻しつつ、境域を軍事力で拡大北進していった日本帝国陸軍が到達した辺境である。はるけくもきつるものかな。この国外れの草原で、「関東軍は五月いらいずっと『確信』をもって作戦を実施し、そのたびに失敗した。将兵を飲まず食わずで、弾薬がつきてもなお戦わせた。しかも補給や救援の手段はいっさい考えていなかった。」(半藤一利『ノモンハンの夏』)という状況が出現する。「そして幻想と没常識な作戦指導で、いかに多くの将兵を死なせたかに思いをいたすものはなかった。」(同書)。そのご、日本国家は、アジアの北の境界(国外れ)での失敗に思いいたすことなく、矛を南進させていくことになる。





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