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コラム「Circuit 07」青池憲司

第36回 ハルハ紀行日録(12)/ハルハ河へ
2007.9.30
写真1 ホテル室内からの朝陽
写真1 ホテル室内からの朝陽

 7月31日。ガン・ヘルレン・ホテル。05時30分起床。昨夜は早めに寝たので早くに目が覚めた。すでに陽は昇りつつある(写真1)。同室の吉郎少年とつれあいが寝静まっているあいだに、S・N・シーシキン大佐の『ノモンハンの戦い』(田中克彦・編訳/岩波現代文庫)を読む。これは、シーシキン大佐が赤軍総司令部戦史局の所蔵する報告資料と作戦記録にもとづいて、1946年に書いたハルハ河戦争(ノモンハン事件))に関する論文で、ソ連・モンゴル側の基本文献とされている。原題は『1939年のハルハ河畔における赤軍の戦闘行動』と、きわめて端的である。

 シーシキン大佐は、この論文の『序論』で、「ハルハ河畔の戦闘は、複雑な国際状況のもとで発生した。ファシスト・ドイツによって開始された第二次世界大戦は、西ヨーロッパの国々を次から次へと自分の勢力圏に引き込みながら、ますます規模を拡大して燃え上がった。/1939年のモンゴル人民共和国への日本軍部の襲撃も、(略)遠く離れた極東を舞台としていても、じつは西ヨーロッパのできごとと深いつながりがあった。」(「 」内の/は改行を示す)と規定し、つづけて、「西方で展開しつつあった世界戦争のざわめきのもと、日本はソ連邦と戦争が起きた場合に利用できるようにと、軍事力によって、作戦上有利な足がかりを軍事的に占領しておこうとねらっていた。かれらは同時に赤軍の戦闘能力を試そうと欲していた。/それとともに日本は、ファシスト『枢軸』の一員として、ファシスト・ドイツの利益のために行動していたから、我が極東国境方面における軍事的『紛争』に乗じて、ソビエト国家の注意を、西方に生じているできごとから逸らさねばならなかった。」と論じている。

 年表風に整理すると、1921年、モンゴル人民共和国成立。24年、モンゴル人民革命党による一党独裁の社会主義を宣言、ソ連につづく世界で2番目の社会主義国家となる。32年、満洲国が日本によって作りだされた。34年、ソビエト・モンゴル相互援助(軍事)条約締結。1935年〜、モンゴル人民革命軍と満洲国軍との間で小規模な戦闘が繰り返される。前掲書のなかで編訳者の田中克彦さんが次のような指摘をしている。「忘れてはならないことは、満洲側もモンゴル側も相互に代表を出して、より大規模な紛争に発展するのを回避しようとしてねばり強く話し合いを続けたのであるが、それを日本もソ連邦も許してはおかなかった。それぞれは、満洲とモンゴルの、この平和を望む会談の指導者たちを、それぞれの手で処刑してしまった。ソ連側はモンゴルの指導者たちを『日本の手先き』と呼び、日本側は満洲国の代表を『ソ連に密通』しているとして摘発した。」。モンゴルをソ連の衛星国として、満洲国を日本の傀儡政権として、それぞれをその視点からのみ論ずる史観があって、わたしもまたその弊をまぬがれていなかったようだ。かりに衛星国家であれ傀儡国家であれ、一分の主体、三分の理はあるのであって、それを見落としてはならなかった。そのような経緯を経て、39年5月、ソ連・モンゴル軍と日本・満洲国軍は、ハルハ河戦争(ノモンハン事件)へと突入していった。戦闘は約4か月つづいた。ちなみに、歴史の後年、1990年にモンゴル人民共和国は一党独裁を捨て、92年には社会主義を放棄して、国名をモンゴル国と改めた。ほぼ70年におよんだ社会主義モンゴルにつては、またべつの関心がわたしにはある。

写真2 チョイバルサンの水場
写真2 チョイバルサンの水場
写真3 ロシア製ワゴン「プルゴン」
写真3 ロシア製ワゴン「プルゴン」

 ハルハ河へ発つ朝なので、上記のようなおさらいをしていると、廊下を隔てたむかいの303号室(洋子さんとひとみさんの部屋)が騒がしい。様子を見に行くと、天井全面からの漏水がベッドの上にはげしく落ちかかっている。コリャ、コレ、ドウシタコトダ。聞けば、夜中にポトンポトンと水が落ちはじめたのだが、眠いし、大事にはいたらないだろうと、それを除けて寝ていた。すると、深更、とつじょ、天井からドドーッと水と漆喰が落ちてきたのだという。ソファに緊急避難して夜が明けるのを待ち、フロントへ行き状況を説明。係が部屋に様子を見にはきたが、それっきり何の音沙汰も処置もない。抗議すると、フロントの女の曰く「あたしゃ、ここで坐ってるのが仕事じゃけん、文句があるなら社長にいいんしゃい」と、木で鼻をくくるような態度なのだそうだ。「じゃ、社長を出せ」「社長は自宅じゃけ」。洋子さんとひとみさんは、ほとんどベッドで寝てないし、まんじりともできなかったのだから、前払いしてある部屋代を返せと迫ると、女は「ソファに寝られたんだからいいじゃん」と宣ったそうだ。これには、温和なふたりも通訳のガル青年も怒ったね。すると、女はしぶしぶ社長に電話をした。社長の返事は、部屋代は返しなさいだったが、それ以外にお詫びのことばひとつなかった。

写真4 チョイバルサンの市街道路
写真4 チョイバルサンの市街道路
写真5 チョイバルサンをでて草原へ
写真5 チョイバルサンをでて草原へ
写真6 ドライバーのバットエンヘさん
写真6 ドライバーのバットエンヘさん

 08時、ドライバーのバットエンヘさんがくる。ホテルをでて、まず、水屋へ寄る(写真2)。ポリタンクに非常用の水を汲む。常用の飲料水はミネラル・ウォーターをたっぷり買いこんである。写真3に写っているワゴン車が、われわれのハルハ往還の車輌、ロシア製のプルゴンである。4輪駆動12人乗り。見た目どおり頑丈な車である。故障が起きても大部分は自分で直すことができ、エンジンも手回しでかけられる、ワイルドな走行環境にうってつけの車だという。水を仕込んだのちはガソリンである。ハルハ河畔のスンベル村まで約350キロメートル、途中にガソリン・スタンドどころか町や村もない。プルゴンの二つのタンクを満タンにして、08時40分、出発。市街地の大通り(写真4)を10分ほど走るとプルゴンは右折し、道路はアスファルトからダートになった(写真5)。この道がわれわれ7人(洋子さん、ひとみさん、吉郎少年、わたしとつれあい、ガル青年、バットエンヘさん=写真6)をハルハへと運ぶ街道である。街道は、人や車馬の往来の激しい(幹線)道路、と新明解国語辞典にある。いま走っている草原の道は人や車馬の激しい行き交いはないが、チョイバルサン―スンベル間の幹線道路にはちがいない。





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