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コラム「Circuit 07」青池憲司

第28回 ハルハ紀行日録(4)/ウランバートルにて
2007.8.25
ウランバートル市街
▲ウランバートル市街

 7月27日。ウランバートル。07時まえに、洋子さん宅で目が覚める。きのうはハードな1日で、寝たのも日付が変わってから、けさはゆっくりするつもりだったが、4時間余りの睡眠で目が覚めてしまった。旅行鞄の中身の整理やきのうの日録のつづきを書いて、みんなが起きるのを待つ。洋子さんのアパートはウランバートルの中心部にあり、セキュリティの利いた建物の4階である。ヴェランダにでて風にあたる。空気が冷涼できもちよい。遠くに遊園地の観覧車が見える。この時間なのでもちろん動いていないが、時間をつくって乗りに行こう。方角がちがうのでここからは見えないが、近くにはチベット仏教(ラマ教)のチョイジンラマ寺院博物館がある。風格のある外観をもち、前回のウランバートル歩きで気に入った古刹だ。1908年に建立され、1924年に博物館になるまでは、僧侶の読経場、生活の場としてつかわれていた。1924年は、21年に中華民国から独立したモンゴルが社会主義(モンゴル人民共和国)を宣言した年である。

 ここ(洋子さんのアパートのヴェランダ)から約1000キロメートル東方のハルハ河一帯では、1939年(昭14)7月に入り、「ノモンハン事件」(ハルハ河戦争)の戦闘はさらに大規模化していた。「第一次ノモンハン事件は両軍あわせて3500人規模の戦闘で、日本軍が敗北した。第二次ノモンハン事件では、両国それぞれ数万の軍隊を投入した。7月1日から日本軍はハルハ川西岸への越境渡河攻撃と東岸での戦車攻撃を実施したが、いずれも撃退された。このあと日本軍は12日まで夜襲の連続で東岸のソ連軍陣地に食い入ったが、断念した。7月23日に日本軍が再興した総攻撃は3日間で挫折した。その後戦線は膠着したが、8月20日にソ連軍が攻撃を開始して日本軍を包囲し、31日に日本軍を戦場から一掃した。停戦交渉はソ連軍の8月攻勢の最中に行われ、9月16日に停戦協定が結ばれた」と、フリー百科事典『ウィキペディア』は記述する。(「ノモンハン事件」2経緯)。

 68年まえのきょう、7月27日の戦場はどんな状態だったのだろうか。持参した何冊かの本を繰ってみる。ハルハ河東岸では、23日に日本軍の総攻撃が開始されていた。第23師団の小松原道太郎師団長(中将)の『陣中日誌』には、「七月二十三日 晴 大暑 天気晴朗、攻撃再興ス」とある。同日の兵士の日誌を見る。「愈々総攻撃ということで早朝より銃砲声や銃弾の破裂音がひっきりなしに聞こえる。どちらの総攻撃かわからない。むしろ敵の弾丸の方が多い。聞くところによると二(日本)対五(ソ連)の戦いになっておるとのことである」(陸軍砲兵一等兵・伊佐間祗三郎さん)。兵士は冷静に状況を分析している。もうひとりの兵士の日誌から。「(略)七時半各砲隊射撃開始、十一時攻撃前進開始、敵モサル者頑強ダ、一五〇〇米前進停止ス。一時半日山少尉負傷、砲弾シキリニ鳴リ響ク、一時四〇分副官戦死、三時頃春田大尉戦死、(略)午後九時出発ノ予定ナリシモ砲弾激シク出発延期トナル、夜ハソノ儘寒サニフルエナガラ壕ノ中ニ寝ル」(陸軍歩兵上等兵・有光三郎さん)。味方はすでにして劣勢である。

 有光日誌の翌24日の記述。「総攻撃二日目敵モナカナカ頑強ダ。支隊ハ真先ニ前進、清水曹長、近藤上等兵戦死、佐々木軍曹、坂本負傷、間モナク浜田少佐(連隊副官代理)負傷、支隊長ハ真先ニ敵陣ニ突入(占領直後立ち上がって眼鏡で状況偵察中)俺ガ壕ヲ掘ル間ニソバデ砲弾ノ破片デヤラレタ、(略)」。戦傷者続出である。陸軍砲兵上等兵・田中誠一さんの日誌。「七月二十四日(733バル高地) (略)外蒙の空晴れて風が立ち、戦線日和なり。連続の射撃で火砲も真っ赤に焼けて居る。昨日の戦闘で敵を相当に震駭したるも、敵兵力は益々加はり戦線は拡大するばかりなり。(略)」。「戦線日和」とは余裕であるか。つぎに、7月25日の伊佐間祗三郎さん(前掲)の日誌。「朝から銃砲声は聞こえたが何時もより静かだ。砂地を掘って飲料水を求めた。二米程掘るときれいな水がでて来た。早速ガソリン缶の底に小穴を開けて砂くずれ防ぎに沈め、水を澄ませ溜まった水を飲料水にして飲んだ。久し振りの水、非常にうまかった」。伊佐間さんは、24日付にも「飲み水が無くなって困った。何とかして水が欲しい」と書いている。武器弾薬食糧水医薬品など、戦場に必要なすべてのものが不備であり、くわえて、作戦が拙劣であったにもかかわらず、兵士たちは、ソ連・モンゴル軍に伍して悪戦よくこれを戦った。

 総攻撃開始3日後の、小松原師団長の陣中日誌に、「七月二十六日 雨 涼 我過テリ」とある。「砲兵ノ効果予想ニ反セリ。二、三時間乃至一日砲戦セバ敵砲兵ノ大部分ヲ破摧シ得ベシト信ゼシニ、事実ハ之ニ反シ、敵主力ハ後退コソスルガ其威力ハ概シテ衰ヘズ、寧ロ弾薬ノ豊富ナル関係上、第三日ハ敵ノ方優勢ナル感ヲ懐カシムルニ到ル。(略)河岸マデ進出、残敵勦滅ヲ目的トシテ夜襲力行シ之ガ為メ生ジタル多大ノ犠牲者、英霊ニ対シ慰ムルノ辞ナシ。(略)」とつづき、再度「我過テリ」で結ばれる。しかし、過っていても戦闘はつづく。前掲の歩兵第七十一連隊の有光上等兵の日誌。「七月二十七日 (略)二・三大隊ハ予定通リ敵ノ陣地ヲトッタ、併シ相当ナ損害ダ、馬場部隊長(U大隊長馬場進少佐)モ負傷、八中隊ナド三名生残ッテヰルノミ、(略)軍旗ハ一先ズ師団ニ移シ、現在地ヲ固守スルコトニナッタ、三大隊ノ損害モ大デアル、十二中隊モ敵ノ包囲ヲ受ケ敵前五十米位デ対戦、中隊長(木村猛中尉)戦死、田中少尉、小田少尉、福井軍曹以下戦死傷、残リタル者一小隊八名、二小隊七名、三小隊五名、指揮班ハ吉田、青木、安本、田中、西士長ノミダ、合計三十名モ残ッテヰレバ好イ方ダ、一体如何ニナル事カ知ラ。(略)」。いかなることになったのか。「結果は
、公刊戦史がいうとおり。『この攻撃は遂に成功を見ることなく終らざるをえなかった。それは総体的にソ軍の空地両面の火力がはるかに優越し、陣地の組織設備がこのときすでに強靭をきわめていたからである』」(半藤一利『ノモンハンの夏』より)。

 みんなが起きてきた。68年後の7月27日にもどろう。





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