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コラム「Circuit 07」青池憲司

第42回 ハルハ紀行日録(18)/戦場東岸にて
2007.11.10
写真1 ハルハ河越に見たハマルダワー    
(台地中央部、針のように見える)

 8月1日。午前。ハルハ河を渡って戦場東岸へ入る。橋の東詰の水辺で2頭の馬が水を飲んでいた。わたしもそこまで下りて行き、汀にしゃがみこんで、流れに手をひたしてみた。ああ、ひんやりつめたくきもちがいい。眼を上げると遠くにハマルダワーの戦勝記念塔が見えた(写真1)。そこは、ソ連・モンゴル軍が布陣し、ハルハ河東岸に散開する日本・満洲国軍を見おろしていた、西岸台地の一画である。わたしは、ついさっきまでそこにいて、いまここにいる。あちらとこちらの視線の差異が“ノモンハン”なのだと実感する。日本・満洲国軍の兵士たちはここにいた。だから、この差異については繰り返し書かざるをえない。「つまり、ハルハ河西岸は蒙古高原で、満洲国側より標高が高く、東岸から西岸台上を望んでもソ蒙軍砲兵陣地は見えなかったのである。ハルハ河からは、外蒙の大地が乗りかかるように迫り、この比高五〇〜六〇メートルの地形には、結果論になるが最後まで日本軍は勝てなかった。」(半藤一利『ノモンハンの夏』)。

写真2 かつてのノロ高地にあるモンゴル国境警備隊の砦

 ふたたび車に乗り込んで、日本軍がノロ高地と呼んだ草原を走りはじめる。砂地に丈の低い草がまばらに生えている。それ以外の植生は人の背の2倍くらいの高さの灌木が点在するのみである。伊藤桂一さんの『静かなノモンハン』には、「この辺りは、草原や砂漠とはいえ、標高は七百メートルから九百メートルもある。(略)草原は、草の生えている表面の土層は、せいぜい十センチほどで、あとは砂層である。」(『序の章・草原での戦い』)とある。一望遮るもののない行く手に、さっきから、砦のようなものが見えている。近づくと、まさにそれは砦であって、国境警備隊の前線基地にほかならない(写真2)。ここでもパスポート・チェックがある。ドライバーのバットエンヘさんが必要書類をもって砦門内(写真正面)に消えてから10数分、ひとりの兵士といっしょにもどってきた。「この地域へ立ち入る許可の日付はきのう(7月31日)のものなので、この許可証はきょうは無効だ」と兵士がいう。おいおい、それはないぜ、だいたい、許可証が発行されたのはきのうの午後6時半だよ、そんな時間からどこへ行けたというのだ。あたりまえに考えれば、明日の行動のための許可証と考えるのがあたりまえだろ、とわたし。ひとみさんが「やっぱりね」という。「きのう、ふっとそんな気がしたのよね、この国ではこういうことってありがち」。長期滞在者の経験がいわしめることばである。されど、天地果つることなきがごとくに広大なこの国にあって、昨夕といい今朝といい、1枚の紙をめぐって、こんな重箱の隅をつつくようなことがあっていいのか。それとも、これは、時代と洋の東西を問わず、軍隊組織の制度の弊であるのか。兵士とのやりとりがさらに数合あって、まあいいや、といった感じで兵士が車に乗り込んできて「行こう」という。呆気にとられるものの、出発。

 プルゴンは砦から離れて北進する。すぐに、ホルステン川へでる。この川は、いまは(すくなくとも、わたしたちが渡った所は)水のない涸れ川になっている。これも近年の世界的な異常気象の影響であろうか。ホルステン川は、ハルハ河の支流で、ハルハ河が草原の戦場全域を東西に流れているのに対し、この小流は戦域を南北に二分して流れていた。当時の様相は、「その川幅は三―四メートルで、深さは二メートルに達する。流域の幅は一五〇〇メートルで、強く沼地性である。両岸は砂でできていて、その傾斜は一五―三〇度で、ところによっては四五度である。この小流はそこで行動する軍隊を不可避的に二分してしまうので、作戦行動をいちじるしく困難にしており、殊に戦車と大砲にとっては難儀である。」(シーシキン『ノモンハンの戦い』)と記されている。いまはすっかり衰弱して、もはや窪地なのか川床なのか定かには見分けがたい傾斜をくだりのぼりして、涸れ川のホルステン川を渡ると、日本軍がバル東高地と呼んだ戦場がひろがっている。

写真3 バル東高地
写真4 地蔵と標と観音
写真5 バル東高地から見たハルハ河対岸のコマツ台

 その茫漠たる地形の激戦地の一点に戦没日本兵士を慰霊する標(しるべ)と地蔵と観音が立っていた(写真3、4)。これらの慰霊の徴(しるし)は、戦場を東西に分けるハルハ河が、ホルステン川に分流する地点(日本軍は「川又」と呼んだ)での酷烈な戦闘で戦死した兵士を悼んだものである。その徴のまえには、以前ここに詣でた人たちが手向けた花と線香が置かれていた。標、地蔵、観音の三体は東を向いて立っている。つまり、多くの損害を受けたハルハ河「川又」方向を向いてはいないのだ。三体が見ている東方の視線の先には日本があリ、東京九段坂上靖国神社がある。背後の西方に眼を凝らすと、バル西高地の先、ハルハ河を越えて対岸のこんもりとした林が見える(写真5)。ここからほぼ真西の方角である。ネレバートルさんに尋ねると、「あれは日本軍がコマツ台と呼んだ西岸台地の一画で、いまそこには、ソ連兵の戦死者を祀った記念碑がある」という。ソ連・モンゴル軍が布陣していた台地である。当時の戦況は、「七月二十四日付の関東軍命令にもとづいて、最前線の将兵は守勢持久のための築城工事に精をだしている。きめられた防御陣地は、ハルハ河東方五〜六キロの横につらねた線で、コマツ台地の敵重砲群の火制下にある。たえず砲撃下にさらされ、さらには執拗さをましてきた各方面の敵の攻撃もあり、
その応戦もいそがしく、陣地構築は思うにまかせなかった。」((半藤一利『ノモンハンの夏』)とある。いま、ここから見てもコマツ台は圧倒的な存在感をもってそこにある。

 陽は中天にかかり陽射しはきびしいが暑さはそんなに感じない。空気がさわやかである。モンゴルの夏は終るのであろうか。





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