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コラム「Circuit 07」青池憲司

第30回 ハルハ紀行日録(6)/ウランバートルにて・続々
2007.8.31

 

ザイサン・トルゴイ
▲ザイサン・トルゴイ

 (7月27日のつづき)。吉郎少年といっしょに行った自然史博物館はたのしかった。わたしは二度目である。ここでは、モンゴルにおける動物・植物・鉱物の多様さが全40室に展示されていて、それを丹念に見ていくとめくるめいてくる。展示物がうまくレイアウトされていない不満はあるが、剥製、標本、ジオラマ、写真、絵画、地図、模型など、さまざまな手段で視覚化していて、その意気込みは壮大である。圧巻は恐竜室である。大型の肉食恐竜タルボサウルスや植物食恐竜サウロロフスの骨格の美しさに見入ってしまう。一体がそのまま化石として出土したものもあるという。モンゴルは北アメリカ、中国とならぶ恐竜化石産地で、いろいろな卵の化石や恐竜の皮膚の化石も展示されている。博物館の開館は1924年というからモンゴルが社会主義国(モンゴル人民共和国)になった年である。

 自然史博物館をでて、中央郵便局のロビーで、つれあい、ひとみさんと合流。タクシーでザイサン・トルゴイへ向かう。トルゴイは丘の意味で、この丘はウランバートル市の南部を流れるセルベ川を越えたところにある。丘は、第二次世界大戦の戦勝記念碑になっていて、トルガがある。トルガは、生命を表すとともに、ソ連兵士とモンゴル兵士が共同して侵略者から防衛したモンゴル人民共和国の独立性を象徴している、という。トルガを囲む環は壁画になっていて、ソ・モ両軍兵士が日本とナチス・ドイツの旗を踏みにじっている場面もある。歴史の事実を表現物として後世につたえることは大賛成だし、上記場面は印象的だが、壁画のみならず兵士像といい全体にソ連のプロパガンダ臭がつよすぎ、モンゴルの主体性が稀薄である点に、わたしの不満がある。モンゴルとソ連人民の友好と相互扶助を謳いながら、ソ連側のデカイ態度が透けて見える。

 丘に登る石段の下にみやげもの売りの露店がでていて、吉郎少年と同じ歳くらいのこどもが店番をしている。「この子は親がいないのだろうか」と吉郎少年がつぶやく。まちのぶらぶら歩きの途中でも、こどもがこどもだけで働いている姿を見ると、彼は同じ質問をわたしにした。また、ウランバートルの歩道にはマンホールがいっぱいあって、その多くはフタがない。余所見して歩いていると落ち込みかねないのだが、吉郎少年は逐一立ち止まって、上体をかがめマンホール内部をしげしげと覗きこんで、「マンホール・チルドレンはいないの?」とポツリと訊く。

 モンゴルのこどもはよく働く。日本のこどもは学校の勉強だけをしている(させられている)が、モンゴルのこどもはおとな(親や家族)とおなじように労働をする。モンゴルは、1992年の民主化にともなう社会体制の急激な変化と、99年と2000年の大寒波による被害で貧困層が激増した。とくに2年つづいた雪害冷害は遊牧民に大きな損害をあたえた。全国で約250万頭の家畜が死亡したという。それが原因で、生活苦から、都市(ウランバートル)へ流入する遊牧民が増加した。都会に移り住んだ遊牧民のほとんどは最貧困層で、生活はさらにきびしく、子育てを放棄する親が続出した。棄てられてストリート・チルドレンとなったこどもの数は、1999年には3000人にものぼった。彼らは、マイナス40℃にも気温が下がる厳冬期は、家庭暖房用の温水管が張りめぐらされているマンホールで過ごすので、マンホール・チルドレンの名がついた。現在は、国営の児童救済施設が設立され、多くのこどもたちが保護され、マンホールで暮らしているこどもは減少したそうだ。とはいえ、貧困問題が解決したわけではなく、それどころか、貧富の差はますます広がっているようだ。吉郎少年のことばに促されてまちを見れば、風景はまた異なった様相を呈してくる。

 さて、洋子さんとガル青年の入境許可証取得行動はどうなったであろうか。結果をいえばOkayだったが、そのプロセスを、ウランバートルで増えている韓国焼肉屋で豚肉を炙りながら聞く。この店はソウルにもよくある豚肉専門の焼肉店である。いま、モンゴルの外国人勢でいちばん元気があるのは韓国人で、企業や商社の進出が数年前から著しい。それにともなって、韓国レストランが急増している。Hiteビールと眞露があふれている。日本と同じように、この地でも韓流ブームはつづいている。それはさておき。

 ――洋子さんとガル青年の相手をした国境警備隊本部の入境許可証発行責任者は、個人が許可を取りにきたことにおどろいたそうである。ふつう、こういう手続きは旅行代理店がやる。また、チョイバルサンまでならともかく、ハルハ地域へ行く外国人なんてまずいない。いたとしても、取材目的のジャーナリストか物書きか、あるいは、ハルハ河戦争(ノモンハン事件)の戦没者の遺族(日本人とロシア人)である。今回の場合はそのいずれでもない。申請にあらわれた女性が手にするパスポートを見れば、12歳から65歳まで男女5人の日本人と、モンゴル人青年の合わせて6人が「草の海を見たい、ハルハ河を見たいから入境許可証をくれ」とやってきたのだから、担当官の好奇心は当然であろう。彼は、口頭でなく、ハルハ地域へ行く目的そのほか必要事項を書類で提出せよ、という。だが、申請用紙はない、きまった書式もない、適当に書いてこい。さあ、どうしよう。洋子さんとガル青年は近くに見つけた印刷屋に駆け込んで紙を分けてもらい、ついでに机を借りてその場で手書きの申請書をつくり、本部へとってかえし、これを係官へ提出した。この間、小1時間。見事な対応力というべきか、泥縄というべきか、まあ、無事受理された。受理はされたが、先ほどの責任者が会議に入ってしまって、待つこと延々3時間余、「ハルハなんてモンゴル人でも行かないのにねえ」といった彼の消えやらぬ好奇心とともに、入境許可証のB4紙片1枚を手にすることができた。結果オーライとはいえ綱渡りの午後であった。





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