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コラム「Circuit 07」青池憲司

第44回 ハルハ紀行日録(20)/スンベル村へもどり、西岸戦場へ
2007.11.25
写真1 吉郎少年と国境警備隊兵士
写真1 吉郎少年と国境警備隊兵士

 8月1日。ハルハ河岸から東へ約16キロメートル離れたバル東高地の一地点。吉郎少年と同行の国境警備隊兵士が親しげに話している。兵士は、吉郎少年のデジカメに興味があるようだ(写真1)。兵士とガル青年に話を訊く。この国には徴兵制があって、男子は18歳から1年間兵役に就く。ただ、制度はそんなに厳格ではなく、兵役代替金と呼ばれる納付金をUSドルに換算して約800ドル払う(大学教授の月給が200ドルくらい)か、海外に留学するなどして26歳までをすごせば、兵役義務は消滅するのだそうだ。これはしかしかなりハードルの高い取引条件だ。また、すでに結婚していて幼いこどもがいる場合も義務を免除されるという。ちなみに、国軍と国境警備隊は別組織だが徴兵は一括して行われ、いずれかに振り分けられることになっているそうだ。モンゴル・ロシア国境も、モンゴル・中国国境もいまは平穏だから、国境警備隊のいちばんの任務は、家畜が越境したときの隣国とのトラブル対応です、とネレバートルさんが笑う。同行の警備隊兵士は28歳で職業軍人、ガル青年は24歳でまだ徴兵に応じていない。彼は、どのような方策があるのか知らないが、「できれば、なんとか逃げきりたい。日本は徴兵制がなくていいね」という。

写真2 九十勇士の碑
写真2 九十勇士の碑
写真3 東岸から九十勇士の碑の場所を見る
写真3 東岸から九十勇士の碑の場所を見る

 正午をすぎて、東岸の草原、バル高地から、涸れ川のホルステン川を辿りなおし、途中、砦で警備隊兵士を下ろし、ハルハ河の橋を渡り返してスンベル村へかえる。満洲国とモンゴル人民共和国の国境線はハルハ河にありとして進攻してきた日・満軍兵士たちが河岸から西岸を望んだ1939年にはスンベル村はまだ存在しなかった。この村の建村はまえにも書いたが1974年のことである。村を抜けて、ハルハ河戦争博物館へもどり、その前庭で昼食。ビールとパン、トマトとキューリ、インスタントラーメン。食後一憩ののち戦場めぐりの午後の部を開始する。スンベル・オボーへ向かう砂利道を登って、ハルハ河西岸台地の道なき草原を走ること約20分、「九十勇士の碑」に着く(写真2、3)。ここは、日本軍が「コマツ台」と呼んだ地点である。ここからはハルハ河を越えて、右手にノロ高地、正面にバル西高地、同東高地、左手にフイ高地と、東岸180度が手にとるように見渡せる。パノラマである。ソ・モ軍からすればおのれの掌を指すようなものである。この圧倒的な地の利の差異がありながら、それでも“戦”になったということは日本軍の兵士がいかに勇猛果敢に戦ったかの証左であろう。それを裏付けるソ・モ軍司令官ジューコフ中将(当時)の言がある。「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である。」。これは、的を射た総括だとおもう。わたしがあえてことばをそえるとすれば、それは、日本軍の下士官兵は、戦場でも、「自らの人生に誠実に向き合っていた」ということだ。

写真4 九十勇士の碑と墓
写真4 九十勇士の碑と墓

 ここが「九十勇士の碑」(写真4)と名付けられた所以は、ハルハ河を渡河して西岸台地に進出した日本軍を打破するために、ソ連軍の突撃志願兵90人が勇猛果敢に戦って日本軍を撃退し全員戦死を遂げた、その“英雄的”行動を讃えて彼らを祀ったことにある。おなじエリアに石塔と記念碑と墓がならんでいる。それを囲むように林があり、わたしたちが訪ねたときは、ハルハ河から吹き上げてくる風が木立に鳴り渡っていた。その音は、わたしには松籟のように聞こえた。記念碑の陰に坐って涼風をうけていると、そこはなにやら、昔なつかしい村の鎮守の一隅のようにもおもえてくる。ネレバートルさんがガル青年の通訳で、ハルハ河戦争(ノモンハン事件)の講義をしてくれる。林間歴史教室の出現である。その内容は、概ね、シーシキンの「1939年のハルハ河畔における赤軍の戦闘行動」(岩波現代文庫『ノモンハンの戦い』所収)に拠っていると、わたしには聞こえた。モンゴル人民共和国から社会主義をすててモンゴル国になってから、モンゴルにおけるハルハ河戦争観の変更修正はないのか、そのあたりのモンゴル人の“肉声”も訊きたかったが、場の雰囲気と通訳の限界もありみおくった。わたしの今後の課題としよう。

写真5 塹壕跡
写真5 塹壕跡

 ハルハ河西岸台地をさらに20分ほど北上して、日本軍がハラ台地と呼んだ地点に着く。ハルハ河に向かって緩やかな傾斜になっている。草は黄茶色っぽく枯れている。モンゴル東部でも、ことしの夏は雨がすくないそうだ。斜面の途中に堀割状の人工物がある。それを辿って登っていくと、蛇行しながら台地の頂までつづいている。終点にかなり広い方形の窪地があった。ネレバートルさんに訊くと、日本軍が掘った塹壕の跡だという(写真5)。ハルハ河の「北渡」という地点に仮橋を架けて渡河した日本軍が、西岸台地のこの辺りを一時的に占拠したときに掘り進めた塹壕だそうだ。現在の規模は、幅約1m_、深さ50pくらいで草に覆われている。頂まで3キロメートルほどはあるか、終点の窪地は指揮所跡だ。ここでも、ネレバートルさんの歴史講義があった。それは当然にもソ連・モンゴル軍側に立つものであり、ほぼ忠実にシーシキンの「1939年のハルハ河畔における赤軍の戦闘行動」をなぞっているので、そこからの引用で整理してみる。

 日本軍のこの渡河作戦は1939年7月はじめのことである。「七月三日二時、小林(少将=引用者注)の突撃隊は、ハルハ河までひそかに近づいて、渡河をはじめた。七時から八時までに渡河を終えると、日本軍は急速にバヤン・ツァガーン山へと前進しはじめた。」(前掲書、以下の引用も同書)。そして、バヤン・ツァガーン山を占領した日本軍はハルハ河の西岸台地に沿って南進した。ここでいうバヤン・ツァガーン山はハラ台地のことである。「ソ・モ軍司令部は、バヤン・ツァガーン地区で日本軍が渡河していることを知ると、すぐさま敵を攻撃し、包囲殲滅するよう決した。」。そして、北西、西。南から日本軍を包囲した。東側はハルハ河の流れである。「日本軍はバヤン・ツァガーン山にすばやく防禦を固めて対戦車の防備を組織しおおせ、ねばり強く抵抗した。戦闘は七月三日、まる一日中続いた。」。日本軍将兵は悪戦よくこれを戦っている。いま、わたしが見ている塹壕跡はそのときの名残である。「七月四日夕刻、我が部隊は全ての前線にわたって三度目の総攻撃を行った。一晩中激烈な戦闘が続いた。最後の力をふりしぼって、日本軍はとにかくバヤン・ツァガーン山を自分の手中に保持しようとした。/七月五日三時頃、敵の抵抗は、最終的にくじかれた。ソ・モ軍部隊の、とりわけ戦車隊の急襲に耐え切れず、敵は統制を失ってハルハ河東岸めざして殺到した。日本軍が渡河のために、舟を並べて作った唯一の浮き橋は、日本軍の手で前もって爆破されていた。(略)西岸に残った日本兵は白兵戦の中で滅んだ。バヤン・ツァガーン山地区で、敵は多数の将兵を失い、大量の武器と資材を放棄した。」

 いま、ハラ台地(バヤン・ツァガーン山)には、西日を浴びて佇むわたしたちの影がのびている。ふいに一陣の風が吹いて、わたしはおもわず、さあかえろうか、とみんなに声をかけた。スンベル村にもどり、博物館ホテルの近くにある村の共同水汲み場へ行った。村人たちがポリタンクやバケツをもって水を汲みにきている。若い娘たちやこどもたちの姿がある。彼らに立ちまじって、わたしたちもホテルで借りたポリタンクに、太い鉄管からほとばしりでている流水を汲む。つめたい、おそろしく冷たい。ハルハ河から汲み上げた水である。その水で顔を洗い手足を拭く。広場に、わたしたちと彼らの長い影があり、声がある。安堵のひとときである。その夜、夕食をすませて、博物館ホテルのまわりを散歩した。まちに街灯はなかったが月明かりで輝いていた。野戦重砲兵・増田金之助さんの陣中日誌に、「八月一日 夕闇迫るノモンハン高原には、彼我の砲声が、いんいんとして鳴り(響いて)、あたりをふるわす。我は独り満月を眺めながら、静かなる追憶にふける。」とある。68年前の満月である。





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