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コラム「Circuit 07」青池憲司

第45回 ハルハ紀行日録(21)/スンベル村からチョイバルサンへ
2007.11.30
写真1 モンゴルの少女14歳
写真1 モンゴルの少女14歳

 8月2日。はれ。08時15分、ネレバートルさん一家の見送りをうけて博物館ホテルをでる。ネレバートルさんの娘婿とそのこども(孫娘14歳=写真1)をチョイバルサン近くのゲルまで送っていってくれないかとたのまれる。そこは娘婿の実家である。諾。まず、村のガソリン・スタンド(GS)へ。GSといっても、原っぱに囲いがあって囲いのなかに給油機がポツンとあるだけだ。給油機には鍵が掛かっていて係員がそれを扱っている。ところが、その係員が不在で村中探しまわること約20分。給油を完了して、チョイバルサンへ向けて出発。ハマル・ダワーを登り、帰路は往路と異なるルートを辿ることにする。まず、ハルハ河西岸台地を北上していく。地下埋蔵物を試掘している光景が見える。中国人ではないか、とひとみさんがいう。中国はいまモンゴルの地下資源に相当な関心をもっているらしい。しかし、モンゴル人の一般感情は中国人の進出を好ましく思っていないようだ。ガル青年にしても、中国(人)を話題にするときは表情がこわばる。彼に理由を訊くと、かんたんにはいえない、という顔をして困惑している。歴史的に中国との軋轢があることはわたしも承知しているが・・・・。やがて、プルゴン(車)は西転し、しばらくすると、ボイル湖が見えてくる。スンベル村から車で1時間30分ほどの距離である。

写真2 ボイル湖。人、水に憩う
写真2 ボイル湖。人、水に憩う

 中国・興安嶺を水源とするハルハ河は、草と砂の大地を西流してきて、スンベル村の辺りから北流し、戦場を貫流し、さらにもういちど西流してボイル湖に流れこむ。その流程約300キロメートル。ボイル湖岸には砂浜があり、そこに立って見晴るかすと、眼をやるかぎり水、水である(写真2)。さながら海洋のごとしだ。水が目から皮膚から泌みこんでくる。馬が水浴みをしている(写真3)。われらも湖水に手をひたし足をつける。この湖は、モンゴルで5番目に大きい(615平方キロメートル)淡水湖で、漁業が盛んだという。でも、どこのまちでも、魚を食べているモンゴル人など見たことないし、イメージもわかないが、中国料理にでもつかうのだろうか。湖上に中国との国境がある。

写真3 ボイル湖。馬も憩う
写真3 ボイル湖。馬も憩う

ちなみに、(フリー百科事典『ウィキペディア』によれば)、モンゴルに海はないが海軍はある。それは、北部のフヴスグル湖に存在し、兵員は7名で最高指揮官は大尉、保有艦船は一隻だそうだ。しかも、兵員のほとんどは泳げず、海すら見たことがない。1997年には民営化されて現在は湖を訪れる観光客の案内をしている、ということだ。

 1939年のきょうの戦場はどんな状況だったのだろうか。野戦重砲兵第七連隊・片岡宗作さんの日誌には、「八月二日 水 晴一時雨 六時起床、段列へ戦友ノインキヲ貰イニ行ク。途中ソ聯ノ戦車ノ破壊サレタルヲ見ル。ゴムノ輪体ニテ機関部ハガソリンニテ焼カレ、中ニ兵隊二名ガ焼死白骨化シテイヰタ。昼食後書簡ヲ書ク。三時半頃夕立アルモ雨ハ少シシカ降ラナイ。グリコヲ支給サル。ナデシコヲ取ル。」とある。野戦重砲兵第一連隊一等兵・長野哲三さんは、「八月二日 水 曇時々雨 (略)昨日の手紙が軍紀に触れて、返って来たので又書き直す。昼食後又書いていると雨、早速雨よけの用意だ。(略)雨中射撃用意の号令あるも、雨の為中止となり、何時かうとうとす。(略)衛兵だ、月下の歩哨。敵も味方も静かだ。遠く西の方では雷雨の様子、雷も大規模だ。(略)」と記している。半藤一利さんの『ノモンハンの夏』(文春文庫版)には、「とくにソ蒙軍が八月一、二日と七、八日の二回にわたって、激越な攻撃をかけてきた。日本軍はこれが予想された八月攻勢かと半信半疑のままに、寡兵ながらよくもちこたえつつ応戦した。」とある。同一日時であっても、戦場の様相はさまざまに異なる。

 ボイル湖岸で一憩ののち、11時すぎに出発、湖を右手に見ながら南下して行く。小1時間走っても湖はつづいている。やがて、往路の第3チェックポイントに着く。パスポート・チェックあり。ここからはきたときとおなじ道をもどるわけである。13時、メネン駐屯地(往路の第2チェックポイント)到着。ゲル・ゴアンズ(ゲルづくりの食堂)で昼食を摂る。復路は気が緩んだのかやたらに眠い。しばしまどろむ。往路の第1チェックポイントをすぎてから、プルゴンは本道をそれて、同乗モンゴル人父娘の実家ゲルをめざす。何も目印はないのだが、父親は、バットエンヘさんに的確に方向を指示していく。草原にポツンと2張りのゲルと小さな馬囲いが見えてきて、それが父娘の実家ゲルであった。ここはチョイバルサンから約30キロメートルの地点で、父親は青年のころ、チョイバルサンの職場へオートバイで通ったそうだ。ゲルに招じ入れられ、スーテーツァイ(馬乳にお茶を入れてわかし塩を足したミルクティ)をご馳走になる。旅をしてきた者の喉と胃にはこれがいちばんである。

 吉郎少年、ひとみさん、ガル青年が馬に乗る。遊牧民志願のひとみさんは日本人離れした見事な走り。ガル青年は都会っ子なのでどこまで乗るかと量っていたが、さすがに流石の手綱さばき。吉郎少年は、数日まえにジリミーン・ツァガン・ヌーラ・ツーリスト・キャンプでの乗馬体験があるので、本人は自信たっぷり、自力で乗るつもりが、手綱を取られて馬囲いのまわりを一回りしただけなので、すっかりおかんむり。相手にそのつもりはないのだが、吉郎少年は、自分が正当に評価されていない、いわば“こどもあつかい”されたと感じ、憤懣やるかたなき感情を、わたしたちにぶつけてくる。「たのしかったモンゴルの旅がさいごにダメになった」。吉郎少年よ、そのように見られたことは口惜しいだろうが、“おとな”の目から見て、きみの腕はまだひとりで手綱を取るところまではいっていない。これは、きみの思いとはべつの事実。あるいは、きみの思いどおりに自力で乗馬して、“馬から落ちて落馬して”過剰な自信をへし折られたほうが、いっそ、きもちのうえではすっきりしたかもしれない。いや、そんなことにはならずきっちり乗れたかもしれない。しかし、“おとな”は、きみのきもちより身体が傷つくことをおそれたのだ。来年の夏、また、チャレンジしよう。
 18時、チョイバルサン着。かえりもバットエンヘさんの運転は見事であった。





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