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コラム「Circuit 07」青池憲司

第34回 ハルハ紀行日録(10)/チョイバルサンへ
2007.9.20

 

写真1 チョイバルサン空港
▲写真1 チョイバルサン空港
写真2 ハルハ河戦勝の碑
▲写真2 ハルハ河戦勝の碑

 7月30日。06時。洋子さん、ひとみさん、吉郎少年、つれあい、わたしは空港へ向かうべく部屋をでて、アパートの門前で通訳のガル青年と落ち合う。ところが、予約しておいた迎えの車がきていない。運転手に携帯電話をかけるが通じない。タクシー会社もこの時間なので埒があかない。アパート前の道路に車を停めてたむろしていた連中(こんな早朝に彼らは何をしているのだろう、たむろしているとしかいいようがない)に、かたっぱしから、空港まで行ってくれないか、と声をかける。ひとりがOKして、彼の車で出発する。こういう、自家用車をタクシー代わりにつかうのは(日本流にいえば“白タク”)、ウランバートルではよくあることだという。街角に立って手を上げていると自家用車が止まる。行き先と値段の交渉をして折り合えば、変じてそれはタクシー(白タク)と化す。料金相場もきまっていて、正規のタクシーとほぼおなじく1km=300Tg(トゥグリク、約30円)である。走りだすとドライバーは車の走行距離メーターを0(ゼロ)にする。これで目的地までの公正な距離が計られるわけである。

 白タクが走りだし大通りへでて、ヤレ一安心と思ったのもつかのま、車のスピードが上がっていかない。ドライバーはしきりにアクセルを踏むがフカフカと頼りなげな音がするだけで、そのうち止まってしまう。アクセルの故障である。フライトが07時20分なのでいささか焦る。この車を捨て、交通量はすくないがともかく走っている車を止めまくって、やっと1台と交渉がまとまる。走りだしてしばらく、市街地から空港へ向かう道路へでたところで霊柩車にでくわす。われらの行く手をふさぐがごとく走る霊柩車は、日本製のあの霊柩車である。えっ、この時間に葬式なの! まさか、まだ午前6時を回ったばかりである。それよりなにより、モンゴルの葬儀で霊柩車をつかうのか。死者を運ぶ車はあるだろう。目のまえを行くのは日本から輸入された霊柩車にはちがいないが、この車がこの地で日本とおなじ目的でつかわれているとは思えない。だとしたら何に利用されているのだろうか。!と?をいっぱい乗せたまま白タクは霊柩車を追い越し、とばしにとばして空港へと走りこんだ。なにやら、われらの前途に多難ありとおもわせる旅立ちであった。

 07時20分、EZA909便(30人乗りのプロペラ機)はチンギス・ハーン空港を離陸し、チョイバルサンへ向かう。快適な飛行である。『ノモンハン戦場日記』(新人物往来社刊)を開く。1939年(昭14)のハルハ河の戦場。
 田中誠一さん(砲兵上等兵)の日記、「七月三十日(733バル西高地) 出動以来はや一ヶ月半。暑熱の七月も暮れんとすれど、戦線は尚拡大するばかり。愈々持久戦に入るか。八月の声聞けば、蒙古高原は早々と秋だ。黎明時には、零下数度に降ると云ふ。既に冬支度だ。冬ごもりの準備を心掛ける。諸材料、道具の仕入れにハイラル迄、貨車一が行く」。
 長野哲三さん(砲兵一等兵)、「七月三十日 日 晴、暑し 五時起床。安藤少尉殿より訓話あり。師団長閣下が歩兵にされた訓示中『三ヶ月に亘る戦斗で敵を殲滅せんとするに当り、ハルハ河右岸に築城を加え、且つ戦い且つ築き、総攻撃で占領した線を守る』と云うのだそうで、我々の此の地滞在も長引くらしい。(略)」。師団長訓示にある「総攻撃」は、7月23日からの総攻撃のことで、占領した線で陣地を築くことであった。
 成澤利八郎さん(砲兵一等兵)は、「(略)地上部隊は出来るだけ交戦しない様になってきたらしい。毎日、敵は前面の強化の為、兵力を送って居る様なれども、大した変化は無しとの報を受けて居る。(略)」。
 有光三郎さん(歩兵上等兵)は、「(略)二十四日ノ大朝(大阪朝日新聞)ヤ満日(満州日々新聞)ヲ見、野球ノ事ヤ夏季休暇ノ事モ空想ニ更ケル、在リシ日ノ銀ブラノ『ジョッキ』ヲ思ッタリ、月ハ煌々ト照リ亘リ実ニ静カナノハ夜十二時頃ダッタ」。
 兵たちは、敵の動きに「大した変化は無しとの報を受け」、「実ニ静カナ」夜をおくっているが、それはいっときつかのまの平穏であった。

 われらの乗機は、08時55分チョイバルサン空港へ到着した(写真1)。革命英雄の名前にちなんだ付けられたチョイバルサン市はドルノド県の県庁所在地で、人口約5万。かつてはソ連軍の大規模な基地があった。この飛行場も旧ソ連空軍の基地であった。ガル青年が手配してくれていた、ハルハ行きのドライバーのバットエンフさんが車で迎えてくれた。空港からガン・ヘルレン・ホテルへ直行し、旅の打合せをする。ハルハ地域での行動予定、行きたい場所と見たいものなどを具体的につたえる。また、バットエンヘさんの仕事の条件を話し合う。彼の報酬は車輌込みで1日45000Tg(約4500円)。道中のガソリン代と宿泊費、食事代はこちら持ち。車輌の事故や故障にかかわる費用はバットエンヘさん持ち。などなどの条件で契約成立。10時30分、談合を終えてまちへでる。

写真3 ソ連製の戦車(BT-5)
▲写真3 ソ連製の戦車(BT-5)
写真4 ソ連製の装甲車(BA-10)
▲写真4 ソ連製の装甲車(BA-10)
写真5 境界を示す石の標識(?)後ろは郷土博物館
写真5 境界を示す石の標識(?)後ろは郷土博物館
写真6 標識(?)左面に漢字、右面にモンゴル文字が見える
写真6 標識(?)左面に漢字、右面にモンゴル文字が見える

 まちがハナヤイデいるので訊いてみると、この地に国境を警備する軍隊がおかれて70周年を祝う式典があるという。70年まえ、1937年(昭12)といえば、「ハルハ河戦争」=「ノモンハン事件」の2年まえである。そのころからすでにモンゴルと満州国の国境をめぐる、ソ連・モンゴル軍と日満軍との小競り合いは、しばしば起きていた。バットエンヘさんに式典会場へつれていってもらう。「ハルハ河戦勝の碑」が立つその場所(写真2)では、式典そのものはすでに終っていたが、人びとはまだ去りやらず記念写真などを撮り合っていた。熱暑熱風のなか、第一装の軍服に身をかためた軍人が家族や友人たちと談笑している。日輪は真上にあってほんとうに暑い(気温40℃はあるだろう、とバットエンヘさん)。
碑のまえにはハルハ河戦争でつかわれたソ連製の戦車(BT-5)と装甲車(BA-10)が置かれていた(写真3、4)。道路を挟んで北側真ん前に郷土博物館がある。その敷地内で石碑のようなものを見た(写真5、6)。写真ではわかりにくいが肉眼でははっきりと、「満洲帝国」という漢字と「モンゴル国」というモンゴル文字(キリル文字ではない)が読みとれた。これはかつてモンゴルと満州の国境線に置かれた領土を分つ標識ではないのか。郷土博物館の係員に訊いてみよう、と館を訪ねたのだが、きょうは国境警備隊創設70周年記念のお祭りで休館。(このことは、どこかでだれかに質問しようとずっと思っていて、ついに確認の機会をえなかった)。





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