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コラム「Circuit 07」青池憲司

第40回 ハルハ紀行日録(16)/戦場へ
2007.10.24
写真1 スンブル・オボー
写真2 ジューコフ司令官の指揮所跡
写真3 指揮所のあった台地からハルハ河と対岸を望む

 8月1日。04時30分に目が覚める。『ノモンハン戦場日記』(ノモンハン会=編)の1939年同月同日の項を読む。野戦重砲兵第一連隊一等兵の長野哲三さんは、「八月一日 火 晴  暑し 五時起床、月は西天に薄くかかっていた。朝礼体操、小隊長殿訓話。(略)昼食の後、敵機約百機来るも、何等異状なし。午後、浮田と日陰に色々話して居る中、何時しか寝入る。『起きろ』の声にいやいや起きると、嬉しや書簡の許可である。早速家へ出す。達ちゃんの家に書いて居る中、敵機の再来で慌てて壕にもどり、又出て書く。その中敵機も撃退され、ほっとしたら今度は砲撃開始だ。慌てて定位につき、久し振りに一気に五十七発を撃った。働き甲斐があった。(略)安藤少尉殿の御馳走で、キャラメルとビールを頂いた。久し振りに落着いて一杯と、云ふ所。今日も亦無事、夢も嬉しい。」と書いている。戦場の最前線としてはあまり緊迫感がなく、なにか“のどかな”雰囲気すら感じられる。これが戦場の“日常性”というものであろうか。さらに読み継ぐ。

 独立野砲兵第一連隊観測小隊通信係上等兵の服部信房さんは、「八月一日 晴 (略)昼食時、敵ハ総攻撃ヲ開始シ盛ンナル戦闘機ノ掃射ヤ爆撃ト共ニ砲弾ハ百雷ノ如ク辺リニ落下スル。火焔ヲ上ゲテ落下スル物凄イ敵機ノ攻撃ハ草原ニ火ガツイテ火炎ヲ起ス程ダッタ。中隊ハ射撃ヲ開始シテ敵ヲ沈黙セシメタガ、電話線ハ切断セラレ補修ニ出タガ小銃弾ハ耳ヲカスメ、砲弾ハ辺リニ炸裂シ土煙リノ濛々タル中ヲ進ンデ行ッタ。(略)」と書いている。こちらの状況はそうとうに切迫している。さらに読み継ぐ。 
 独立野砲兵第一連隊第一中隊砲兵一等兵の成澤利八郎さんは、「八月一日 火 晴 早くも八月に入り派兵以来四十日、良く戦ひたり。(略)夕食を終へ全員休養せんとした時、敵空軍実に五十余機、第一線上空に現はれ爆撃、掃射の猛威を振ひ第一線散兵に爆弾の雨を降らせたり。掃射すること二回、又重砲火等全火力を我が第一線に集中し、我が散兵を苦境に陥した、的が外れれば好いと思ふ。三中隊の陣地付近にも爆弾が落ち、我が高射砲陣地も爆弾の雨、一戦は濛々たる爆煙に包まれ爆裂の音ごうごうと地響きを立て、更に火砲は集中火を止めず。友軍砲兵も去り行く敵機を見乍ら火蓋を切った。(略)」と書いている。おなじハルハ河畔の戦場でも、部隊(砲兵と散兵=ここでは歩兵のことと理解した)や、その配置位置によって戦況は極端に異なっている。

 シーシキンの『ノモンハンの戦い』(岩波現代文庫)は、戦闘行動地域について、「地上戦は、東はモンゴル人民共和国と満洲国との国境から、西はハルハ河までに限定された領域の上に生じた。その奥行きは二〇キロ、幅は六〇―七〇キロに達した。」と記している。60〜70kmといえば東京から東海道線で平塚の先、小田原の手前ほどの距離である。これではおなじ戦場といっても戦闘状況が大いに異なるのは当然であろう。しかし、さえぎるものとてない草原であるから、戦闘の諸様相は望見できるわけである。
 
 スンベル村、博物館ホテルの窓外が明るくなってきたので部屋から外へでてみる。けさのハルハ河畔は68年まえとおなじく天気は快晴だが暑くはない。大気は冷涼である。一昨日までのあの猛暑がすっかり消えている。09時30分、わたしたちは博物館ホテルを出発。戦場への案内人は館長のネレバートルさんである。まず、ハルハ河西岸台地のスンベル・オボーへ(写真1)。博物館から約7kmの距離である。オボーとは、石を積んで小山のようにしたもので、いくつかの種類があり、それぞれに名前がある。金のオボー=共同体の神聖な場所につくられている。道のオボー=路傍や小高い場所にあリ、マイルストーン(里程標)の役割をし、人はここで旅の安寧を祈る。泉のオボー=水が湧き出る場所にある。鉱泉のオボー=鉱泉や温泉の源泉につくられている。草原のオボー=一望千里の草原で方角の目印とされる。国境のオボー=国境沿いに転々と置かれている。いずれのオボーも自然への崇敬と人の生きる知恵がむすばれたものである。

 スンベル・オボーは、ハルハ河戦争(ノモンハン事件)時の軍事地図に出ている。村は当時はまだなかったし、集落などもなかったはずだから、このオボーは、道のオボーあるいは草原のオボーとして遠いむかしにつくられたものであろう。スンベル・オボーから100メートルくらい離れた場所に、ハルハ河戦争でソ連・モンゴル軍の指揮を執ったジューコフ司令官(当時中将)の指揮所跡があった(写真2)。記念碑が建っている。ネレバートルさんの話では、再来年(2009年)のハルハ河戦争70周年にむけて指揮所を復元しようという計画があるそうだ。そのほかにも記念行事のプロジェクトがロシアとモンゴルの間ではじまっているという。日本ではそんな計画はないのか、とネレバートルさん。わたしは寡聞にして知らない。それはともかく、この台地からは眼下にハルハ河とそのむこうに広がる草原が見事なまでに一望できるのだ(写真3)。ハルハ河東岸(右岸)がパノラマ状に見おろせるさまにおもわず息をのんだ。かつて、この西岸(左岸)台地を訪れた日本人戦没者慰霊団の人たちが対岸を見て、「ああ、これでは上からめった撃ちではないか」と叫んだという記述が、半藤一利さんの『ノモンハンの夏』(文藝春秋刊)にあるが、わたしもそれを実感した。これまで旅の途次に読んできた著作に登場した日本・満洲国軍兵士たちは、こんな地勢で戦っていたのだ。日・満軍から見れば頭上の敵、ソ・モ軍から見れば眼下の敵である。

 伊藤桂一さんの戦場小説、『静かなノモンハン』(講談社刊)に次のような描写がある。「ハルハ河を境にして、左岸の外蒙領は、地形がやや急勾配に高くなり、右岸の満洲領側は、ゆるい傾斜のまま砂丘化している。つまり、満洲国側からハルハ河をみると、河の向こうの大地の奥を望見することはできないが、外蒙側からみると、ハルハ河を越えて、どこまでも、視野の限り満洲国側を望み見ることができる。ということは、台上から砲撃した場合は、目標物を射的場のように狙うことができるので、外蒙側の地形のほうが、はるかに有利ということに、なる。」(『序の章・草原での戦い』)。

写真4 戦勝記念塔
写真5 その下に立つ、右から、
ガル青年、ネレバートルさん、バットエンヘさん
写真6 村端れとハルハ河

 スンブル・オボーからハルハ河沿いの台地を北東に進むとハマルダワーと呼ばれる地点に出る。そこは、きのうの夕方、われわれがはじめてスンベル村を見た場所で、ダワーは峠の意味である。その近くにソ連・モンゴル軍の戦勝記念塔(ハマルダワー記念塔)が建っている(写真4、5)。1984年にモンゴル人の設計でソ連が建設したものだ。高さ55メートル、重量110トンという青銅複合構造の巨大建造物は、社会主義時代の英雄行為を記念する歴史のオボーであるのか。この場所からもスンベル村とハルハ河、そのむこうの東岸激戦地がくっきりと見える(写真6)。





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