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コラム「Circuit 07」青池憲司

第39回 ハルハ紀行日録(15)/スンベル村
2007.10.17
▲写真1 国境警備隊駐屯基地前

 7月31日。17時10分、われわれのプルゴンは、ゆっくりと丘をくだって、スンベル村へ入る。村は、夕陽を浴びてやさしいたたずまいのなかにあった。この村は、モンゴルでもっとも東に位置し、中国内モンゴル自治区とはまぢかに国境を接している。だから、この地方でいちばん大規模な国境警備隊基地がある。村へ入ってまず為すべきことは、ウランバートルで取得した入境許可証をもって警備隊本部へ赴き、ここでの滞在許可証を出してもらうことである。それをしないまま近辺をウロウロして、あやうく逮捕されかけた例もあるという。くわばら、くわばら。われわれは、まっすぐ警備隊本部へ直行した(写真1)。したのであるが、ここで問題がひとつもちあがった。

 本部の担当官(若い下士官)に入境許可証を見せればあっさりOKが出るものと思っていたら、どこへ行きたいのか、とかれが訊くので、ハルハ河戦争(ノモンハン事件)の旧戦場とこたえると、担当官はペーパーを矯めつ眇めつしながら、「この許可証ではそれはできない」という。えっ。!と?が三つずつ付くくらい仰天した。これには、とペーパーをひらひらさせながら、「目的地はスンベル村としか書いてない。村に滞在することはOKだが、旧戦場のことは何も記載されていないから、そこへの往来は許可できない。これは自分の上官の判断である」ときた。たしかに入境許可証にはそのようにしか書かれていないだろう。だが、われわれは、スンベル村のエリアがどんな範囲かなど知るよしもないし、旧戦場がそのエリアにあるのかどうかを、判断する情報も与えられていなかった。であるがゆえに、唯一地名として認識している「スンベル村」を目的地として申告したのだ。

 洋子さんとひとみさん、吉郎少年、わたし、通訳のガル青年の5人が、担当官を取りかこむようにして押し問答をつづけたが埒があかない。ここでは、チョイバルサンのホテルでのように、社長(上司)を出せというわけにはいかない。「われわれは遠く日本からきたのだし、もういちど上官にお伺いを立ててみてほしい」と頼む。彼は、「どんなにいわれても上官の考えはかわらないだろう」といいながらも本部事務所へ入っていった。待つことしばし。人の影やものの影が伸びていく。こどもたちが、村の子ではなく国境警備隊の軍人のこどもたちがマウンテンバイクを乗りまわしている。風がだんだん涼から冷へとかわり肌寒くなってくる。荷物から長袖シャツを引っ張りだして羽織る。気がつけば20分ほどの時間がすぎ、やっとあらわれた担当官の手には1枚のペーパーがあった。旧戦場への往来許可証である(写真2)。許可が出ないわけはないだろうと思ってはいたが、やはり安堵する。若い担当官の顔にもやれやれといった表情があった。

写真2 この地域を往来する許可証
写真3 ハルハ河戦争博物館(ホテル入口側)
写真4 ホールの映写室

 18時40分、今夜の宿の博物館ホテルへ到着する(写真3)。これは、「ハルハ河戦争博物館」(国立。1987年開館)に併設された宿泊施設である。プルゴンから荷物を下し部屋割りをして、それぞれに一服する。吉郎少年も一人部屋、不安がるかと心配したがケロリとしている。ずっとおとなといっしょの時間ばかりだから、ひとりになれて、せいせいかも。館長のイシーン・ネレバートルさんと明日の旧戦場行きの打合せをする。ネレバートルさんは62歳、ウランバートルの大学を出て、1974年にこの地へやってきた。その2年まえの72年、集落もなにもないハルハ河畔の草原に国境警備隊の基地がつくられた。そして、74年にソ連の政策で農業生産地としての開拓がはじまり、全国から入植者が集った。スンベル村の誕生である。最初の入植者のひとりが若きネレバートルさんで、スンベル村のまさに開拓者であり、後年には村長を務め、その職を辞したのち、7年まえから博物館の館長をしている。村の歴史とともにここで自分の人生をつくってきた人である。

 ネレバートルさんの案内で館内の展示品を見る。ハルハ河戦争(ノモンハン事件)で使用された兵器や戦場の写真、戦闘場面のジオラマなどを館長の解説付きで見ていると電気が消えてしまった。停電である。この村は時間給電制で、その時間は18時30分から20時30分までの2時間である。つづきは明日の朝にでもといったら、夜でなければだめだという。そうか、館内は窓がないから昼間は真っ暗なのだ。夜、電気がきている2時間しか観覧できないユニークな博物館である。ローソクの灯りで夜を過すのもいいなと思っていたら、また電気が点いた。館内の一部とホテル部分には自家発電で23時まで電気を供給するのだそうだ。夕食にゴゥッルッタイシュル(羊肉の入ったモンゴルうどん)が出た。脂たっぷり汁うどんなので、わたしはパスして持参した日本酒とさばの水煮(缶詰)。ドライバーのバットエンヘさんが、なぜ食べないのか訊くので、わたしの今夜の体調では脂がきつすぎるとこたえる。ガル青年が「モンゴル人は脂肪分を多量に摂らないと冬を越せない」という。そうだろうな。吉郎少年は丼一杯ぺろりとたいらげて、ホーショール(小麦粉の皮でひき肉を包んだ揚げもの)に手をのばしている。バットエンヘさんに日本酒をすすめる。彼は、一口呑んで、シミンアルヒに似ているねという。シミンアルヒは馬や羊の乳を蒸留してつくる酒で、草原で暮らす人びとは自家製をたのしんでいるという。

 夕食後、館内のホール(りっぱな映写室付。写真4)で、『ハルハ河1939年』というソ連製のドキュメンタリー映画を観る。ドイツと日本とイタリアは手を組んで世界を分割支配しようとしていた。日本の役割はモンゴルを占領し、ソ連の国境をおびやかし、そうすることでナチス・ドイツの野望を助けることにあった。それが、ハルハ河戦争(ノモンハン事件)を引き起こした日本のねらいであったが、モンゴル人民共和国軍とソ連赤軍は英雄的な共同軍事行動でそんな目論見を完膚なきまでに粉砕した。――まあ、こういった内容のものである。反ファシズムのプロパガンダ映画であるが、露骨なほどにソヴィエト万歳映画でもある。とくにラストシーン。戦争に勝利して帰国する赤軍兵士が乗った列車を追って、一頭の馬が別れを惜しむがごとくどこまでも並走して行く。そして鳩が舞う。馬がモンゴルの象徴であるのはいうまでもないが、モンゴルに、鳩=平和をもたらしたのは赤軍であるといわんばかりの“つくり”は、たしかに、ソ連・モンゴル軍の主力が赤軍であったにしても、ちょっといただけない。映画の構成・編集は買えないが、しかし、写された事実、実写フィルムの1カット1カットは貴重なものである。





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