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コラム「Circuit 07」青池憲司

第38回 ハルハ紀行日録(14)/草原にて
2007.10.10
写真1 1番目のチェック・ポイント
写真2 車のフロント・ガラス越しに見た停止線の鎖
写真3 入境許可証

 7月31日。ハルハ河へつづく草原をプルゴンで行く。チョイバルサンをでて40キロメートル(車の走行距離メーターで計算)あたりから悪路になる。しかし、わがドライバーのバットエンヘさんは40km/hくらいのスピードでオウトツ道を押さえこんでいく。そのハンドルさばきとペダル操作は、一頭の馬にうちまたがって草原を疾駆する牧人の手綱さばき鐙さばきのように見事だ。だが、悪路は悪路である、プルゴンの揺れることといったらない。わたしは、走行中の折々にメモをとっていたのだが、このあたりでは、車の振動揺動ひときわはげしく、書きつけた文字が乱れて判読不能の部分がある。

 出チョイバルサン後107キロメートル付近に国境警備隊の最初のチェック・ポイントがあった(写真1)。草原の道に鎖が1本張り渡してあって(写真2)、その傍らに哨所がポツンと建っていて、兵士がひとり、ただそれだけである。ここで、日本人はパスポート、バットエンヘさんと通訳のガル青年はIDカード、とともにウランバートルで取得した例の入境許可証(写真3)を提示する。哨所のなかを好奇心で覗いてみた。兵士が数人いて,ひとりが,われわれのパスポートをノートに書き写している。なにかもっと厳しいものがあるのではないかと若干緊張していたので、やや拍子抜け。ジイシキカジョウであったか。若い兵隊さんたちにキャンデーと煙草をふるまい、10時30分走行再開。

 ハルハ河戦争(ノモンハン事件)の1939年(昭14)7月31日の実況を日本軍兵士の戦場日誌にみる。独立野砲観測小隊通信係上等兵・服部信房さんは、「七月三十一日 晴 今朝モ相変ラズ夜明ケト共ニ敵機ハ来タ。砲弾ノ音ハ遠クニ聞エルノミニテ至近弾ハ全クナイ。友軍機ハ依然トシテ制空権ヲ握ッテイル。割合ニ静カナ一日ダッタ。夜間ニナリ敵機ノ行動ハ依然トシテ止マラナイ。」。砲兵一等兵・成澤利八郎さんは、「(略)第一線部隊は敵との距離は次第に近くなって居る。話が出来る位近く敵の機関銃及び迫撃砲隊は友軍の歩兵を悩まして居り、我が有力なる空軍は空爆を毎日続けて居る。午前九時頃になって、敵の戦闘機及び爆撃機からなる四十機ほどの大空軍が、雲霞の如き編隊にて我が後方陣地に空襲を加え、満領内に入り、我が高射砲陣地からの正確な射弾で一機はやられたらしい。(略)」と記している。両日記ともに空中戦を印象的に書きつけているが、「砲弾ノ音ハ遠クニ聞エルノミニテ至近弾ハ全クナイ。」戦線あり、「第一線部隊は敵との距離は次第に近くなって居る。話が出来る位近く敵の機関銃及び迫撃砲隊は友軍の歩兵を悩まして」いる前線あり、戦況はさまざまであった。

 半藤一利さんの『ノモンハンの夏』(文藝春秋刊)は、この数日間を、「七月二十四日付の関東軍命令にもとづいて、最前線の将兵は守勢持久のための築城工事に精をだしている。きめられた防御陣地は、ハルハ河東方五〜六キロの横につらねた線で、コマツ台地の敵重砲群の火制下にある。たえず砲撃下にさらされ、さらには執拗さをましてきた各方面の敵の攻撃もあり、その応戦もいそがしく、陣地構築は思うにまかせなかった。」と記述している。では、ソ連・モンゴル軍のうごきはどうだったのだろう。

 シーシキンの『1939年のハルハ河畔における赤軍の戦闘行動』(『ノモンハンの戦い』岩波現代文庫)に次のような記述がある。「大きな損失で終った、成果のない攻撃を何度かくり返した後、七月二十五日、日本軍は攻撃を停止し、防衛戦に移動した。この時、ソ・モ軍は日本軍に比べ、兵力は、とりわけ歩兵において劣勢であり、極めて困難な状況の下で闘わねばならなかった。個々の部隊相互の間には一〜二キロの間隔があり、それは弱い掩護部隊によってしか守られていなかった。この間隙にむかって、日本軍は頻繁に夜襲をかけて来た。敵の攻撃をかわすためには、個々の隊を、ときには相当な距離を一つの部署から別の部署へとすばやく異動させて、すぐさま、戦闘に投入しなければならなかった。/こうしたすべての困難にもかかわらず、我が諸部隊はすべての任務をやってのけた。我が軍は日本軍をハルハ河に近づけさせず、東岸に足がかりを保持し、まさにそのことによって、この後に続く、ソ・モ軍の総攻撃を展開するための有利な防禦戦を確保することができたのである。」と。

写真4 国境警備隊メネン駐屯地
写真5 駐屯地の建物
写真6 外壁の肖像画
写真7 ゲル・ゴアンズ。右が調理場ゲル
写真8 ゲル・ゴアンズの客用ゲル
写真9 スンベル村全景
写真10 丘の向こうにスンベル村が見える

 わたしたちが向かっているハルハ河の一帯は、68年まえのいまごろ上記のような状況下にあったのだ。出チョイバルサン後150キロメートルのほどの地点、メネンという地名の場所に国境警備隊の駐屯地があった(写真4)。中国(内モンゴル自治区)との北部国境まで約15キロメートル、第2のチェック・ポイントである。かなり大規模な駐屯地で、本部建物や多数の兵舎(5)、そして、軍事施設全体の電力をまかなう発電所がある。建物の外壁には軍隊の英雄たちの肖像画が飾ってあった(6)。パスポートとIDカード、入境許可証を提出してチェックを受ける。砦こそないが、アメリカ西部劇映画で見る騎兵隊の駐屯地の風景に雰囲気が似ている。屯所の向かい側に、ゲル・ゴアンズ(ゲル食堂。写真7、8)があり、ここで昼飯にする。発泡スチロールの箱に氷詰めにしてきた<大事な>缶ビールを飲み、持参したパン、ソーセージ、トマトなどと、ここで注文したゴゥッルッタイシュル(羊肉の入ったモンゴルうどん)を食す。

 13時30分、メネン駐屯地を出発。この辺りから徐々に草原の緑の量がふえていく。だが、洋子さんの期待している「背の高い草が一面に茂って、まさに『草の海』」という景色はいまだ見えてこない。何時間走ってもどこまで行っても、大草原は、ぐるっと360度、視界をさえぎる人工物など何もない大草原である。うごくものは、ほんのたまに、遠くを走る人馬を見るだけで、ハルハ河畔のスンベル村に着くまでに出合った対向車はたった1台であった。出チョイバルサン後240キロメートルほどの所に第3のチェック・ポイントあり。ここをすぎてハルハ河に近づいていくにつれて土が湿り気をおびて鈍色になっていく、草の色の緑が濃くなり丈も長くなる。17時10分、スンベル村を見下ろす丘に到着した(写真9)。チョイバルサンをでて約350キロメートル、8時間30分を経て辿り着いたモンゴル東方辺境の村である。西日を背にうけてほっと一息ついたのであるが(写真10)、どっこい、もう一難題が待ち受けていた。





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