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青池憲司コラム眼の記憶09

第4回 往還 〜KOBE・南木曽・世田谷〜(3)
2009.2.21

 1月17日、「野田北部たかとり震災資料室」のオープニング・セレモニーのあと、神田裕さん(「たかとりコミュニティセンター(TCC)」代表で神父)の、長野県南木曽町の中学生たちへのメッセージをヴィデオで撮影する。これは、わたしが1月30日に南木曽中学校で行なう、「阪神大震災特別授業」のためのサプライズ映像である。(このことは次々回のコラムにくわしく書きたい)。撮影終了後、ひさしぶりにTCC内の食堂で昼食を摂る。肉とじゃがいもがいっぱいのカレーライス、らっきょうと福神漬け食べ放題で300円を、TCCのなかにある、NGOやボランティア・グループのスタッフたちと、中庭の大テーブルで、わいわいお喋りしながら食べる。人の輪にも日差しにもめぐまれて、いや、うまかった。

 散髪屋ハヤシで散髪はせずに食後のコーヒーをご馳走になり、ひろっちゃんすみちゃん夫婦とショモナイことをダベリ、鷹取駅北口からバスに乗って、おなじ長田区の御蔵通地区へむかった。これも例年のきまりの“巡礼”コースである。ここには、<阪神・淡路大震災まち支援グループ 「まち・コミュニケーション」>(略称「まち・コミ」)がある。「まち・コミ」は、阪神大震災で、約8割焼失という大きな被害を受けた長田区御蔵通5丁目を拠点に、「御蔵通5・6・7丁目町づくり協議会」の支援や、共同化住宅再建支援、イベント、勉強会の開催などの活動を行なってきた(いる)ボランティア団体である。ボランティアだからこそできる発想と行動で、地域住民と恊働のコミュニティづくりをめざしている。

 事務所には、「まち・コミ」顧問の田中保三さんや代表の宮定章さん、専従スタッフの戸田真由美さん、そして地元の人たちがいて、親しく話し込んでいた。わたしも話の輪に混ぜてもらったが、交わされる話はいいことばかりではない、いや、明るい話はすくない。現今の大不況は残念ながら、ここにももろに及んでいて、地域で印刷業を営むMさんは、もうどうにも商売が立ち行かない、という。震災で何もかも失い裸一貫から出直し、いくたびかの難儀も乗り越えてきたが、ここへきて二進も三進もいかなくなった、もうお手上げだ、というのだ。これは、いうまでもなく、Mさんひとりのことではない。震災直後から御蔵地区の復興活動に邁進してきた田中さんの会社(自動車部品関連業)も大手からの締めつけがきびしく、「小企業の経営者として、自分の会社と従業員をいかに守るか悪戦苦闘している」とのことである。

 田中さんは、<阪神・淡路大震災まち支援グループ 「まち・コミュニケーション」>の機関紙『月刊まち・コミ』に、「大地のつぶやき」というエッセイを連載している。わたしは、毎号愛読しているが、インターネットでも読むことができるので、ぜひいちど電子版を開いてみていただきたい。そこには、復興市民の自負と真情があふれている。

 おなじ日、薄暮のころ、わたしは、JR新長田駅前広場にいた。「1.17 KOBEに灯りを in ながた」の会場である。1999年から毎年1月17日に行なわれているこの催しは、震災で亡くなられた方々の供養とあの日の振り返り、そして復興へのねがいをこめて、蝋燭に「灯り」を点す行事である。また、長田から全国へ、阪神大震災の記憶を発信することを目的にしている。主催は、地域の団体や個人で構成する実行委員会で、実行委員長を務める和田幹司さんは、気っ風のいい人で、ワダカンさんと呼ばれて地域の人たちに親しまれている。わたしも懇意にさせてもらっている。辺りが暗くなったころ、「1.17 ながた」の蝋燭文字に灯が点された。そして、午後5時46分(地震発生時の12時間後)黙祷、合掌。この夜のために用意された蝋燭7000本余は、保育園から中学生までの園児、生徒の手で準備されたという。老若男女、世代を繋いで、多くの人たちの手で鎮魂の灯は点されつづけた。

  『月刊まち・コミ』http://park15.wakwak.com/~m-comi/

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