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青池憲司コラム眼の記憶09

第2回 往還 〜KOBE・南木曽・世田谷〜(1)
2009.2.7

1月17日の朝を、1996年以来かわることなく、被災地KOBEで迎えた。午前5時46分に地域の大国公園(神戸市長田区野田北部)で鎮魂の蝋燭をかこんで、住民のみなさんといっしょに黙祷した。ことしは風もなく寒気もさほどではなく未明の空に半月が冴えわたっていた。とくに構えての儀式があるわけではない。人びとは集り、自治会の用意した蝋燭に灯を点し、亡くなられた命に合掌し、永らえた命どうしがことばをかわし合う。簡素にそれだけである。ことしもわたしはその環のなかにいた。

これも例年のきまりであるが、大国公園からカトリックたかとり教会へむかう。ここ数年、教会で1.17早朝に行なわれるミサは、キリスト教と仏教の協同の慰霊である。僧侶たちが般若心経を唱え、神父が主の平和を祈る。わたしは、神も仏ももたない身であるが、般若心経は音楽的に好きだし、その場に会した者が握手やハグをする主の平和の祈りのアクションも気に入っている。前者は人の思いを内へとむかわせ、後者は人の思いを他者へと開く。ともに、人と人を平につなぐ。ヴェトナム人の信者さんたちが寄進し、地震のあの日、燃えさかる火の手を止めたという伝説を生んだイエスさん(像)は、お経とハグのこの光景をどのようにご覧になるであろうか。きっとよろこんではるとちゃう、とは会衆何人かの言である。

この時期の神戸の日の出は、7時00分台である。白々明けの教会の内庭で豚汁をいただく。これもきまりごとである。震災から14年も経つときまりごとがだんだんふえていく。熱々の豚汁の湯気のむこうに馴染みの顔、ひさしぶりの顔、年に一度この日この時この場で会う顔がある。かつてのボランティアたちである。さすがに、遠くからこの時刻にやってくるのはなかなか無理なので近場の人たちが多いが、それでも名古屋や長野、関東から前夜に入った人たちもいる。当時の鷹取救援基地でボランティアをしていて知り合った学生男女が、そのご恋愛し結婚し一子をもうけ、親子3人でやってきた。地域の人たちもくわわって、祈りの場はいっときあの頃の日々の同窓会的雰囲気になる。おたがいの近事近況の話があちこちで飛び交っている。

夜が明けきって、地域の人たちは家にかえり、元ボランティアたちはそれぞれに散じていき、わたしは、野田北ふるさとネットの事務所へもどった。野田北部まちづくり協議会の浅山三郎会長や役員の面々がいて、(きのうも今朝も顔を合わせているのだが)あらためての挨拶。「ことしもよろしくおねがいします」。これも例年のことだが、1月17日の朝が被災地KOBEでは新しい年の朝である、とみなさんがいう。わたしもそれを実感している。新年なればということでお神酒を少々いただく。日頃から野田北部のまちづくりにかかわっている、さまざまな分野の人たち(建築家、都市計画家、プランナー、行政マンなど)が訪ねきたって、話し込んでいく。この光景もまたなにやら年頭の挨拶まわりの趣である。震災14周年、この日はそれぞれの地域でそれぞれの催しがある。そのいくつかをこれから訪ねる。1月17日、被災地KOBEの長い一日は、はじまったばかりである。

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