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眼の記憶08

第1回 厳寒の被災地KOBEから(1)
2008.1.24
阪神大震災13周年朝の大国公園(寺沢正敏さん写す)
写真 阪神大震災13周年朝の大国公園(寺沢正敏さん写す)

 いま、日本列島は厳寒のなかにある。阪神大震災13周年の被災地KOBEもべつではない。1月17日午前5時46分、例年とおなじように、わたしは神戸市長田区野田北部地区の大国公園にいた(写真)。記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』(全14部)撮影中はもちろん、震災のつぎの年の朝からいちどしか欠かしたことのない、大国公園で迎える1.17の朝のうち、こんな寒さはあまり経験していない。地域の住民さんも、地震の日の朝以来ではないか、という。それでも、多くの人びとがこの時間この場所に集って黙祷した。こうして、ことしも、被災地KOBEの新年がはじまった。

 大国公園での鎮魂を終え、カトリックたかとり教会へむかった。これも恒例である。教会では、ミサではなく、仏教と合同の慰霊祭が行われていた。僧侶と神父がならび、「般若心経」が上げられ、聖書のことばが唱えられた。暗闇のなかで法螺貝の音も聞こえた。山伏もいたのだろうか。式のあと、豚汁が振る舞われた。すっかり顔なじみになっている人たち、日本人だけではなく、在日の韓国人やヴェトナム人、日系のブラジル人といった、なつかしい面々といっしょにアツアツの豚汁を食べた。そのころになるとあたりが白々となってくる。人ともののかたちがくっきりと見えてくる。14年目へむかう被災地KOBEの夜明けである。

 定宿にしている(させてもらっている)野田北ゲストハウスの部屋で一服してから、さんぱつ屋ハヤシで散髪をする。いつものように、ひろっちゃん(林博司さん。「野田北ふるさとネット」の本部長でもある)が髪切りをし、すみちゃん(林澄子さん)が顔をあたってくれる。わたしは、いまでも年に3、4回は被災地KOBEにきているので、そのたびに、ふたりに首から上の手入れをしてもらう。震災の年からの習いである。この店では、むかしからよくいう“床屋談義”がたのしめる。地域の近況と人のうごきなどの、わたしの情報源はご両人である。住民さんの誰それのあれこれだけではなく、ボランティアにきていた知り合いたちが結婚したとか子どもを産んだとか離婚したとかのレアなネタも入手できる。だが、さいわいなことに、去年1年は震災関連での知人の訃報は耳にしていない。

 知り合いに不幸はなかったが、阪神大震災で被災した人たちの、それを直接間接に原因とする死はいまもなおつづいている。被災地全域の公営災害復興住宅での高齢者の「孤独死が2007年1年だけで60人」というニュースを聴いたときは、正直、絶句仰天した。茫然として、そのときしていた仕事の手がとまってしまった。震災からまる13年が過ぎたというのに、60人もの人たちがだれにも看取られずに、たったひとりの死を死んでいるのだ。しかも、高齢者や単身者の「孤独死」をふせぐことを目的のひとつとしてつくられた「災害復興住宅」で、である。なかには10日以上も発見されなかった人がいる。行政は容れ物をつくった。「地域見守り事業」(兵庫県は「高齢者見守り事業」、神戸市は「見守りサポーター事業」)など、それなりの制度も実施している。これは、地域の人たちの手がまわらないところをサポーターが巡回訪問し、安否確認など公的な見守りをする制度である。また、市民グループのボランティアやNPO団体の活動も行われている。それでも、孤独死はあとを絶たない。

 なぜ、そんな事態が起るのか。その一因はコミュニティの変化・衰退にあるのではないか。わたしが知る、神戸市長田区の野田北部地区や真野地区は、震災後、コミュニティの結束力をいっそう高めたが、そうでない地域も被災地では多い。被災して住む家を失った人たちが、避難所から仮設住宅へ移ったときはまだ、震災前のコミュニティをかろうじて保ったかたちでそこへ入居することできた。かつての町内の知り合いもすくなからず近くにいた。そのご、もともと住んでいた地域にもどることができず、災害復興住宅への移動を希望した人たちは、行政の選別が、高齢者優先や障害者優先で行われたため、震災前のコミュニティはもちろん、仮設住宅生活で築いてきた絆さえもが分断解体されて入居先が決まってしまったのである。

 高齢の入居者にしてみれば、器(部屋)はあたえられたが、ここはどこやら見ず知らずの地であり、心安い人とておらず、初顔合わせの隣人へのことばはおいそれとは出てこず声も掛からず、いっそ器のなかに引きこもってしまいがちにならざるをえない、ということになる。災害復興住宅の建った地域では、新しい住民さんとの付き合い(コミュニケーション)をもとうとするが、努力もはかばかしくいかず、怠けているわけではないのに、時間ばかりいたずらに過ぎていく。そんな日々歳々のなかで孤独死は日々歳々起っていった。孤独死があとを絶たない一因はコミュニティの変化・衰退にあるのではないか、と書いたが、住民生活の基盤であるコミュニティを変化・衰退させる原因をつくったのは行政にほかならない。

 そんな話を、3日後(20日)の「ふれあい喫茶」で、浅山三郎・野田北部まちづくり協議会会長にした。「ふれあい喫茶」は集会所で月2回、日曜日の午前中に開かれ、地域の住民さん、それも高齢の方が多くあつまる。毎回70人前後の来店者があるというから盛会である。浅山さんは、「行政はハコをつくることはできるが、コミュニティをつくることはできない」といった。行政と戦闘的に協調しながら震災復興まちづくりを進めてきたリーダーの言は明快である。コミュニティづくりは、ひとえにそこに暮す人たちの仕事である、ということだ。ホトケにタマシイを入れるのは住民の力である。わたしたちの社会のかたちを変革していく魁として阪神大震災はまだつづいている。

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