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コラム「Circuit 06」青池憲司

第4回 ヴェトナム戦争とその戦後を読む
2006.2.10
▲昨年は2度ヴェトナムを訪問した Photo:青池憲司

 ヴェトナムの作家バオ・ニンが1991年に発表した『戦争の悲しみ』(井川一久訳/めるくまーる刊/1997年初版)は、美しい小説である。戦争が人間にもたらす酷薄な状況も、戦闘が兵士におよぼす苛烈な状態も、バオ・ニンが語りかける物語は凛として美しい。13章からなる物語は、一貫してドキュメンタリー文学の精神と方法で提示されていて、戦争の渦中と戦後社会の混乱のなかの人間をみつめる作者の目には、感傷も妥協もない。その語り口(表現方法)は明晰である。わたしがこの小説を美しいという理由はそこにある。わたしは、ヴェトナム戦争(抗米戦争)の戦後に書かれたこの作品を、ことしになってはじめて読んだ。出版されてから15年後、日本語訳がでてから8年余後の初読である。おくればせの出会いだが、出会えてよかった。

 『戦争の悲しみ』の主人公キエンと恋人のフォンが生きた時代はどんな時代だったのか。本文から引用する。「日本軍駐留時代〔1940〜45年〕と対仏独立戦争〔45〜54年の第一次インドシナ戦争〕を加えれば、ヴェトナム民族はこの75年4月の第二次インドシナ戦争終結まで、実に35年間も戦いつづけてきたことになる。キエンの世代は、この世界史上最長の局地国際戦争の最後の十年間を戦ってきた。戦争が彼らのすべてだった」(〔 〕内は訳注)。くわえて、訳者による作者インタヴューでバオ・ニンは、「私たちヴェトナム人にとって戦争は1975年に終わったわけではありません。米国との戦争に続いてカンボジアのポル・ポト政権との戦争があり、中国の侵略(中越戦争)があり、さらにカンボジア武力紛争があった。ヴェトナムの平和は、89年のカンボジア撤兵でやっと到来したのです」と発言している(解説から引用)。

 1965年、高校を卒業した17歳のキエンとフォン。キエンは北ヴェトナム人民軍に入隊し、フォンは進学の道を選ぶ。アメリカによるヴェトナム戦争が本格化した年である。軍用列車で戦地にむかうキエンと疎開列車に乗ろうとしていたフォンは偶然出会い、別れの時間をもつ。折しも空襲警報の発令で列車に乗り遅れ、ふたりは行をともにすることになる。悲劇の幕が上がる。米軍による北爆のさなか、貨物列車のなかでフォンは集団レイプされてしまう。ふたりの愛と喪失の物語を中心に、抗米戦争時代を生きた、死んだ、そして生きのこった、青春群像の人間模様が展開されていく。キエンは、激戦の中部高原から75年4月30日のサイゴン攻略までの10年間を優秀な兵士として戦い、戦後はMIA(戦時行方不明者)捜索隊で働き、無職の退役軍人としてさまよい、物書きで食うようになって、生きてきた。「彼の心の内なる何ものか、彼をつよくせきたてる何ものかが、崩れ果てた日常に活を入れた。それは心の最深部から湧き出る何ものかだった。あらゆる死者と生者への愛とでも呼ぼうか。それがキエンに生きる方向を告知した。人間を記録せよ。哀しい歴史の中の人間の悲しみを記録せよ」(本文)。キエンは作者バオ・ニンの分身といってもよい。

 バオ・ニンは1952年生れ。69年にハノイの高校を卒業して北ヴェトナム人民軍に入隊、76年に除隊して作家となる。その間の経歴は主人公キエンとほぼ軌を一にする。その意味で、この作品は同時代の青春への鎮魂歌といってもよい。バオ・ニンがキエンがフォンが民衆が抗米戦争を戦っていたころ、日本(世界)ではヴェトナム反戦運動が高揚していた。そのとき、わたしたちはたしかにヴェトナム人民といっしょに時代を背負っていた。しかし、抗米戦争の戦後を生きる彼らと、ヴェトナム反戦運動の戦後を暮すわたしたちがレツを組むことはなかった。バオ・ニンは語る、「殺戮と破壊は、外敵に屈しなかった私たちにも、時に自殺を促すほどの深刻な傷を残しました。本気で戦った者たちには、戦いが果てたあとも安らぎはなかった。しばしば絶望と狂気と別離が彼らを見舞った。私はそのことをあるがままに書いた。だから『戦争の悲しみ』なのです」(前出インタヴュー)。

 キエンとフォンは、戦後に再会し、ふたたび愛し合うが、ふたりの心身を隔てる溝は深い。短い共同生活と別離。フォンはキエンの許を去り、体験のすべてを書き終えたキエンも読者の前から姿を消す。
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