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コラム-わが忘れなば

第16回 ホーチミン・シティ―バンコク―鷹取(6)
2005.8.3

ベンタイン市場
▲ベンタイン市場 Photo:青池憲司 >>拡大
 アジアのまちの素顔にふれたかったら市場へいけ、というのが鉄則である。そこで、ベンタイン市場へでかけた。ホーチミン・シティではいちばん大きな市場である。マジェスティック・ホテルをでてサイゴン川沿いに下り、右折してハムギ通りをいくと広場にでる。大きなロータリー。ここは、ヴェトナム戦争のころは公開処刑がおこなわれた場所である。その一角に、というより、前面に広場をもつ城館のように市場は建っている。レ・ロイ通りの入り口はさながら城門のごときである。商うものは、金銀細工から鍋釜まで。仏具から電動玩具まで。肉、魚、野菜、果物。アオザイの生地、色どり彩かな布地、最新ファッション。輸入ブランド品と国内製偽ブランド品。ナンデモアル、とかいてもおいつかないほどなんでもある。なかでも圧巻はやはり魚売り、肉売り、野菜売りなど、ナマモノ(生鮮食品)の売り場であり、それらを売る女たちである。かの女らの多くは、若年増、中年、初老で、いずれも、コの字形にならべた商品の凹みのところに坐って、買い物客の女たちと丁々発止とやりあっている。それは、百花いっせいの咲きほこりを見るようであり、百鳥いっせいの囀りを聞くようでもある。その姿に、鷹取にいる在日ヴェトナム人のガさんやツエットさんが二重写しになる。メコン・デルタが孕んだ食材の豊饒さと、それを売る女たちの圧倒的な存在感。――ベンタイン市場は女の都である。その質量と豊満さにおいてアジア随一といってもいいかもしれない。

 広場のバス・ステーションの脇にあるフォー屋(ヴェトナムうどん屋)で昼飯にする。風がよく通るこざっぱりとした店。壁に額入りの写真がたくさん飾ってあって、ちかよって見ると、なんとクリントン元アメリカ大統領がこの店でフォーを食しているではないか。背広ネクタイ姿でエアコンもない場所であつあつのフォーを食べるとは。さすが唯我独善のアメリカンではある。元大統領とは関係なくフォーはうまかった。マジェスティックを引き払ってホテル・リンへ移る。中国系ヴェトナム人の家族が経営する小さな古いホテル。フロントに孫娘、キッチンに親夫婦、ロビーのカウンターちかくにはなにするのでもなくゆったりと座している老夫婦。三代の仕事場であり家である。部屋は広くて天井高く瀟洒な西洋箪笥(と漢字でかきたくなるタンス)が置かれている。大きな籐製のベッド。部屋のなかは好環境。外は周辺に飲食店やディスコテックがあって、その日の夜は、ひさしぶりにアジア的騒音をたっぷりとあじわった(男の喚き声、女の罵り声、車やホンダの走行音、音のみ大きくていっこうに利かないエアコン)。

メコン・デルタのジャングル
▲メコン・デルタのジャングル Photo:青池憲司 >>拡大

 次の日、メコン・デルタ・クルーズへでた。ホテルで待ったいると、旅行社のミニバスがやってきてツアー客をピックアップしていく。総勢14人。オーストラリア人夫婦、フィリピン人夫婦と娘、アイルランド人男性と同行日本人母娘、アメリカ人夫婦、わたしと同行者、ガイド男性とドライバーである。パック旅行をする場合はこういう現地編成の混成チームがいちばんいい。苦手は日本人だけのパッケージ・ツアーである。みんなで大きく透明なビニール袋をかぶって一糸乱れず行進しているようで疲れる。旅は知らない外国人どうし袖すり合うのがよい。混成旅団には旅の気分をいやがうえにも盛り上げようとする任がかならずでてくるもので、このグループではアイルランド人がそれだった。かれはよく冗談をとばし、歌をうたい、ガイド相手に掛合い漫才をやったり、エンタメな活躍ぶりであった。けっして独りよがりにはしゃいでいるのではなく、まわりの雰囲気を感じとることに長けていた。こんなペースメーカーがいるとグループ全体の活気もよくなる。ホーチミン・シティから国道1号線を南西に走ること約1時間半、ミトーまでの車内は好漢アイリッシュ氏のおかげで退屈しなかった。この街道周辺もミトーもヴェトナム戦争の激戦地である。

 混成チームの会話は英語である。したがって、わたしは情報を英語できき、こっちの要求を英語でつたえるのだが、いつになく英語をリラックスして喋ることができた。単語をならべるだけの、ローマ字発音イングリッシュだがどんどん口がまわる。ミトーの船着き場から小さなモーター付き木造船でティエン川(メコン川)の川中島のひとつタイソン島へわたる。メコン・デルタにはいくつもの川筋があって、ティエン川もメコン川を形成する一流である。大河である。清流ではない。濁流でもない。肥沃で豊満な大流である。タイソン島はジャングルである。それを切り開いて集落がある。島を歩いていくと人家があり、KARAOKE(と看板がでている)がある。ココナツ・キャンディをつくる工場があって、見学する。工場といっても小屋掛けの素朴な設備で、おっちゃんとおばちゃん、若い娘3人と若い衆2人が働いている。女たちはきびきびと、男たちはたらたらと。見学といってもあっという間におわってしまうのだが、その合間にお茶や果物の接待があった。これはおいしかった。

 お茶を飲みながらヴェトナム人のガイドくんと立話をした。かれは、わたしを在外同胞の里帰りとみていたという。「なぜ?」「なんとなく。風貌かな?」「うさんくさい?」「えっ?」「あやしい?」「いや、親戚に似た人がいたから」「ふーん。ところで、きみは何歳?」「1979年生れ」「ヴェトナム戦争、いや、アメリカとの戦争(救国抗米戦争)の戦後生れだ」「えっ?」「ヴェトナム戦争は知ってる?」「もちろん。歴史の授業で勉強した。顔を知らないおじさんたちが敵味方に分かれて3人死んだ」「ソーリー」。この会話は英語である。ガイドくんはうまい英語を話す。わたしにはかれの英語がわかるのだが、かれにはわたしの英語が通じにくい。傍らにいた好漢アイリッシュ氏が通訳してくれた。わたしの英語をアイリッシュ氏が氏の英語でヴェトナム・ガイドくんにつたえる。するとガイドくんはうなずくのである。なんと。

 一服したのちメコン・デルタの水路をいく。ジャングルのなかを縦横に走る迷路のような水路のニッパヤシをかきわけるように進む。小さな木舟の<へさき>と<とも>に女性の漕ぎ手が乗り、ふたりにはさまれて、日差しを除けるためにヴェトナム笠を被ったわれら客が4人。6人乗りである。ここでも働き手は女である。このふたりの見事な櫂の操りには生活者としての自信があふれている。その姿態を見ていると、またしても鷹取のガさんの姿がうかんでくる。かの女はミトーちかくの出身ときいている。日本へボート・ピープルとしてやってきて、姫路の難民センターを出てのち神戸の長田区で暮し、阪神大震災に遭遇した。家族の生活の再建だけでなく、震災後からは、在日ヴェトナム人同胞の生活相談や交流、ヴェトナム文化の紹介などの活動をしている。(その一つに、「NGOベトナム in KOBE」がある。これはヴェトナム人自身が2000年に立ち上げ運営している)。ガさんもまた、少女のころ、この水路をいったであろうか。(つづく)


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