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コラム-わが忘れなば

第14回 ホーチミン・シティ―バンコク―鷹取(5)
2005.7.10

少女を抱くホー・チ・ミン国家主席
▲少女を抱くホー・チ・ミン主席 Photo:青池憲司
 5月19日(木)。はれ。ホーチミン・シティは朝からねっとりとした暑熱のなかにある。グエン・フエ通りを歩いていく。片側4車線、センター・ゾーンありの大通りである。舗道は樹木がすくなく乾いている。ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキ、総称してホンダの大群の排気ガスと走行破裂音が街中に充満している。3ブロックほどむこうの人民委員会庁舎がチカチカと白光して見える。途中でグエン・フエ書店に寄る。1階から4階までのフロアにジャンル別に雑誌書籍が置かれている大きな書店である。辞書や事典や学習参考書のならぶコーナーもあり、教育関係の書籍が豊富である。市内地図を買う。地名がクオック・グー(ローマ字化したヴェトナム文字)と漢字で表記されている地図である。ちなみに、ヴェトナム人識字率は高く95%をこえている。東南アジアでは一番である。サイゴン・トライアングルと呼ばれるこの辺りには本屋が多い。買いこんだ市内地図を片手に、わたしは、きょうもシティを徘徊彷徨する。

 グエン・フエ通りのつきあたり、レ・タイン・トン通りに建つ人民委員会庁舎はフランス植民地時代のものだが、そこへでかけたのは、建物に興味があったのではなく、建物のまえの小広場に造られた銅像、ホーおじさん(ホー・チ・ミン主席)が少女を抱く像を、見たかったからである。ホンダの奔流をいのちがけで渡ってちかづくと、それは、期待にたがわず、ちからづよく慈愛にみちあふれた美しい像であった。台座のまわりには花束が幾重にも供えられていた。ホーおじさんの生涯をごくごくかんたんに略年譜風に記せば次のようになる。
ホー・チ・ミン 本名グエン・タト・タイン。別名にグエン・アイ・クオック(阮愛国)がある。敵の目をくらますための変名であり、そのひとつホー・チ・ミン(胡志明)を名乗ったのは1942年からである。

1890年5月19日、フエに生れる。
1930年 ヴェトナム、のちのインドシナ共産党を結成。
1941年 ヴェトナム独立同盟(ヴェトミン)を結成。
1945年 日本敗戦。アジア太平洋戦争終る。ヴェトナム民主共和国建国。
1954年 第一次インドシナ戦争(救国抗仏戦争)に勝利するが、南北ヴェトナムの統一は妨げられた。
1959年 南ヴェトナムの武力解放を指示。のちにヴェトナム戦争(救国反米戦争=第二次インドシナ戦争)に展開する内戦のはじまりである。
1969年9月02日、ハノイに没した。

 79年の生涯は革命と独立と民衆のために捧げられた。
 ホー・チ・ミンは、この時代を生きたヴェトナムの革命家、政治家のなかでは、北であれ南であれ、すべての同時代ヴェトナム人民衆に敬愛された唯一無二の人である、とわたしは理解している。難民としてやってきた鷹取のヴェトナム人もホーおじさんの悪口はいわない。そのことを納得させる、少女を抱くホーおじさんの像であった。

 その、慈愛にみちたホーおじさんのやさしい手を逃れて約80万もの人が北ヴェトナムを脱出していくという一大事変があった。1954年のことである。この年、ホー・チ・ミン率いるヴェトナム民主共和国は、第一次インドシナ戦争(救国抗仏戦争)に勝利した。フランスをはじめとする関係国との間でジュネーヴ協定が成立し、ヴェトナム民主共和国の独立は承認された。しかし、戦争中にフランスを積極的に支援し、共産主義の東南アジアへの浸透をおそれたアメリカは、北緯17度線によってヴェトナムを南北に分割させ、南にはフランスの傀儡政権としてのヴェトナム国を存続させた。これがのちのヴェトナム共和国(南ヴェトナム)となる。念願の独立は果たしたものの国土は南北に分断された。このとき、1年間にかぎり、南北の住民にどちらかの体制を選択する権利が認められ、国内の大移動があった。南から北へ向かったのはヴェトミン軍の将兵だけだったという。北からは約80万人の住民がベンハイ川(17度線)を越えて南下した。そのうち約3分の2がカトリック教徒で農民から知識人まで、あらゆる職業の人たちがふまれていた。卓抜な政治的頭脳と民衆の心をもつホーおじさんの許から、かれが生涯賭けた革命運動と人民戦争の日々のなかで、つねに身近に寄り添っていると信頼していた、貧しい人びとや抑圧された人びとが、さあこれから新しい自主独立の社会を創りだすのだ、というその矢先に、80万人もの民衆が去ってしまったのだ。その事実に、ホー・チ・ミンは涙した、とつたえられている。

 北から南へ移住したさまざまな職業の人たちの約3分の2がカトリック教徒だった、と知って憶いだしたことがある。鷹取で出会った在日ヴェトナム人のかなりの人たちが北ヴェトナム出身であることだ。かれらの祖父母、父母、かれら自身が、54年の交換事業で、共産主義政権をきらって北から南へと移った。阪神大震災直後の鷹取で、30代初めのS青年と知り合った。かれの祖父は北の小さなまちで教師をしていた。カトリック教徒であり、アカ嫌いの祖父は家族をつれて南下し、サイゴン近郊で生活を再建した。父は南のヴェトナム共和国の軍関係(兵士ではなく)の仕事をした。ヴェトナム戦争へのアメリカの介入が激しくなったころSさんは生れた。かれが12歳のころヴェトナム戦争が終結し、また北の共産主義者たちがやってきた。Sさん一家の生活はふたたび激変する。父は5年間ほど矯正施設に入れられ、母親が暮しをたてた。Sさんはなんとか高校を卒業したが、父の経歴の問題で就職は思うようにいかない。将来になんの希望もみいだせないSさんは、1980年にボートピープルとしてヴェトナムをでた。2度失敗し3度めに成功し、日本船にひろわれマニラ経由で日本にたどりついた。Sさんによれば、ボートピープルとして故国をでてきた難民家族の、20世紀中後半の歴史は、ほとんどが、北ヴェトナム→脱出→南ヴェトナム→脱出→日本ほか外国へ、というエクソダスの歴史だという。(つづく)

★訂正:第11回と第12回のコラムで、ホー・チ・ミンの肩書を国家主席としましたが誤りです。正しくは、ヴェトナム労働党主席。ヴェトナム民主共和国の初代大統領。

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