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コラム-わが忘れなば

第10回 ホーチミン・シティ―バンコク―鷹取(1)
2005.6.10

 ヴェトナム、ホーチミン・シティ(旧サイゴン)、グエン・ティ・ミン・カイ通りを北に折れたところに戦争証跡博物館がある。ここには、わたしたちが「ヴェトナム戦争」と呼ぶところの、ヴェトナム人からすれば「アメリカ戦争(救国抗米戦争)」時代の事物、おびただしい事物の断片が展示されている。戦争中にこどもたちが画いた絵。こどもと家族の日常は戦争に包囲されていた。ヴェトナム人従軍カメラマンが撮った写真。ヴェトナム戦争の全史をつたえる、その膨大なショット。ある人びとが侮蔑的にヴェトコンと呼んだ南ヴェトナム解放民族戦線の兵士たちがジャングルで使っていた生活用品。かれらの生活はすなわち戦闘であった。南ヴェトナム解放民族戦線兵士と北ヴェトナムの正規軍兵士が使用した銃器武器弾薬。これらも生活用品であった、のか。外国人従軍カメラマンが撮った写真。マグナム写真集団から石川文洋まで、インドシナ戦争の全史がシュート(撮影・狙撃)されている。

 博物館本館の1階フロアに展示されている事物の断片は、断片であるとともに、それぞれに歴史的瞬間の総体である。それらをたどっていくと、展示のさいごにいたって、ヴェトナム戦争の一つの重大な真実に、必然として立ち会うことになる。それは、アメリカ軍の枯葉剤撒布による被害を受けた命、奇形胎児のホルマリン漬けである。そして、枯葉剤の被害状況を克明に記録した文献資料がその横にある。人間社会に、日々、生起する出来事は、その事実は一つであっても、真実というものは多様であって、その人の、あるいは集団の、拠って立つ位置と思考形態がことなれば、真実は、二つ以上からそれにかかわる者の数だけあるといっても、あながち、まちがいではないようにおもう。しかし、この、枯葉剤による命への攻撃にかぎっていえば、事実も真実も一つであって、それは、アメリカという人類の一員がヴェトナムという人類の一員にたいして引き起こした凶行であることに疑いの余地はない。人間の真実は、すべてとはいわないが、多く、人間の愚行蛮行として顕現する。多く、新しい命への傷害抹殺として。人間は、その真実を、多く、政治のことばで薄めようと努力する。

 博物館の本館をとりまくように別棟の展示館があって、その4号館と5号館には、拷問の島と呼ばれたコンソン島の牢獄「トラの檻」を忠実に復元してある。南ヴェトナム共和国政府が、逮捕した南ヴェトナム解放民族戦線の活動家や政府に反対するリベラルな知識人、教師、宗教者、市民たちを、この島に送りこんで、凄惨な拷問にかけた。見学客のいない室内に、ひとりきりで入っていくと背に冷感が走った。空気がおぞましくよどんでいるように感じられる。拷問の器具を直視することにわたしの眼は耐えられない。怯むな、人間の作ったものではないか、とわが身を励ますが、人間の作ったものだから、おそろしい。

 6号館には、当時、世界各国の社会体制を揺るがし、新しい価値観創出の起爆力となった、ヴェトナム反戦運動の写真、ポスター、新聞などが展示されている。べ平連の「殺すな」と日本共産党のポスターがあった。1号館から3号館には、ロバート・キャパから沢田教一までの報道写真の数々。新聞社や通信社、フリーランスを問わず多くのカメラマンが戦争の事実をつたえ、かれらの幾人かは戦火に散った。わたしが親しくその写真を知るかぎりでも、嶋元啓三郎、沢田教一、一ノ瀬泰造が死んだ。キャパは、インドシナ戦争(救国抗仏戦争)末期のヴェトナムで取材中に地雷を踏んで死んだ。

 3号館の出口ちかくに、当時、戦争を遂行したロバート・S・マクナマラ米国防長官が1995年に発表した、『マクナマラ回顧録 ― ベトナムの悲劇と教訓』(共同通信社刊)が展示されていて、そのなかでマクナマラは、「ベトナム戦争は誤りだった」とかいている。「われわれは間違えた」とも。だからといって、そうだからといって、枯葉剤で障害を負った人たちがもどるわけではない。環境破壊が正されるわけではない。ジャングルやメコン・デルタで死んでいったヴェトナム民衆と兵士、アメリカ軍兵士がかえるわけではない。マクナマラの過去の政策への批判的分析は鋭利だが、そこに、政策実行者としての反省と、ヴェトナム人への謝罪はない。かれが詫びるのは、自国の戦死者とアメリカ国民と自らの神に対してだけである。しかし、この書物の価値はサブタイトルにもあるように、ヴェトナム戦争の悲劇と教訓を21世紀にどういかすか、というところにある。わたしたちは、それをいかしているか。否であろう。「人は何度でも同じ過ちを犯す」と断定するマクナマラの言は、現在の世界にとってきわめて示唆的であるといわねばならない。

 戦争証跡博物館のそんなに広くない敷地内には、戦争時の南ヴェトナム政府軍とアメリカ軍からの戦利品が所狭しと置かれている。ジェット戦闘機、ヘリコプター、戦車、大砲、爆弾etcetc. それは、無造作に即物的にあっけらかんと放棄されるがごとくに置かれていて、なにか、去勢された獣を見るようである。本館の前庭では、ヴェトナム社会主義共和国の軍人たちの慰安会のようなものが開かれていて、カラオケ大会がはじまっていた。ちなみに、この国でも、カラオケはKARAOKEである。うたわれている歌は、ほとんどが勇壮なマーチ風の歌で、軍帽軍服の軍人が直立不動の姿勢でうたっている。そのまわりに、わたしのような観光客が、日陰の石造ベンチや日向の地べたに坐りこんで、このショウを何と見たらよいのか、途惑いながら見物している。ギャラリーのほとんどがアメリカ人で、年恰好からすると、かつて兵士としてこの国にきた経験をもつ人もいるだろう、とわたしには見うけられた。ヴェトナム戦争終結から30年、かつて、チャーリー、と呼ばれた若き日のかれらが、いま、相応に歳古りて、ワイフといっしょに、この都市を徘徊している。わたしも似たようなものである。わたしは、ヴェトナム戦争では直接の加害者ではなかったが、加害勢力の側の国のひとりであった。1975年4月30日、サイゴン陥落、北ヴェトナム正規軍入城。そのご30年、世界とわたし自身の当為と無為が、この国特有のねばっこい暑熱といっしょに、わたしの身体に降りかかってくる。

 5月中旬から末にかけて、ホーチミン・シティ(旧サイゴン)、バンコク、鷹取を歩いた。しばらく、その旅を綴ってみたい。

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