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コラム「Circuit 07」青池憲司

第15回 木場の太郎
2007.5.24

 岡本太郎の壁画を見に木場の都立現代美術館へ行きました。最寄りの地下鉄駅から木場公園へ入り、広大な公園内を15分くらい歩きます。陽光と爽風にめぐまれて、あまり季節感のない大久保浸りの身としては、なにやら行楽の気分でもあります。木場公園は、その名のように、もともと木材の貯木場や倉庫があった場所で、それらの機能を新木場に移転したのちに公園化され、地下には都営地下鉄大江戸線の車庫があるそうです。総面積24.2haの敷地のなかには仙台堀川という、上流は小名木川と接し、下流は隅田川と合流する運河が流れています。現代美術館もこの公園内の北端に建っていて、わたしは、シンプルなつくりのこの美術館が気にいっています。

 美術館の常設展示場3階に足を踏み入れて思わず上体がのけぞりました。体育館のような空間に大きな巨きな物体があって、その体圧に一瞬鑪(たたら)を踏んだのです。そこに、太郎がいた、いや、岡本太郎の壁画『明日の神話』がありました。縦5.5m_×横30m(写真をごらんください。これはわたしが撮りました。この作品に限り写真撮影OKという、珍しくもはじめての体験でした)。とにかくデカい。しかし、ここでたじろいでいるわけにはいきません。圧力をはねのけてこちらも一歩進みます。すると、こんどは、あの独特の色彩と造形がわたしを誘い、掴みこむように挑んでくるのです。やばい、止まれ。立ち止まって息を吐き吸いました。

 じつは、わたしが、太郎の制作物に対面するのはひさしぶりです。1970年大阪万博『太陽の塔』も実物は見ていません。また、「芸術は爆発だ」のころの太郎の諸活動にはあまり関心をもてませんでした。とはいえ、60年代に見た『痛ましき腕』(37年制作)、『重工業』(49年)、『森の掟』(50年)以来こんにちまで、わたしにとって太郎が忘れられた表現者になったことはいちどもありません。太郎はいつも身近にいました。太郎の絵を見に行くときはいつも対決精神をみなぎらせて出かけたものですが、今回は、ひさしぶりの太郎とあって、いささか油断していたようです。壁画『明日の神話』のあの巨きさに不意を撃たれた感もありました。太郎は太郎、どこを切っても金太郎飴のように岡本太郎であって、その芸術的挑発力はいささかも変わっていませんでした。

 壁画『明日の神話』(68年〜69年制作)は、ある解説によれば、「原爆投下やビキニでの水爆実験の禍々しさと悲惨さ、それに負けない人間の誇り、怒りの爆発、再生を描いた作品」とあり、『ヒロシマナガサキ』の副題をもっています。メキシコシティの新築ホテルのロビーを飾るために描かれ、完成後に依頼主の経済状況が悪化し、ホテルは未完成のまま放置され、壁画はロビーから取り外されて永らく行方不明になっていた、それが、2003年9月、メキシコシティ郊外の資材置場で発見された――というエピソードが話題になりました。日本に運ばれ修復された作品は06年に公開されましたが、わたしは、そのときには見ていません。

 数日まえに、現代美術館ではじめて『明日への神話』を見て、わたしは、太郎と再会した思いをつよくしました。そこには、60年代にわたしが熱中した太郎のすべて(パリ時代のシュルレアリズムから戦後のアヴァンギャルド芸術、プリミティヴの再評価など)がありました。「壁画は趣味的な美術作品ではなく、社会に打ち出すピープルの巨大なマニフェスト(宣言)なのだ」と太郎はいいましたが、『明日への神話』は、まさに、芸術運動者としての岡本太郎の集大成的表現であります。と同時に、『明日への神話』は、そのような制作活動をつづけてきた運動者太郎のひとつの終焉を告げる作品でもあった、ことをあらためて確認した気分です。


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