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コラム

第2回 ことしもKOBEから始る(中編)
2005.1.30

千葉景房(左)、青池憲司(中央)、村本勝(右) 大国公園にて
千葉景房(左)、青池憲司(中央)、村本勝(右) 大国公園にて
 1月17日(月) 阪神大震災10周年。この日未明の不覚についてはすでにかいた。そこは省略して。── 野田北部まちづくり協議会の事務所がある旧事業用仮設家屋2階の部屋(通称・野田北ゲストハウス、わたしの定宿)を出て、カトリックたかとり教会(たかとりコミュニティセンター)へ。紙の集会所、ペーパードームでは1・17のミサがすでに終ろうとしていた。大国公園での「黙祷」のあと、ここへきて、神田裕神父の説教を聞くのが毎年の習いなのだが、それもことしはスキップしてしまった。ミサがおわって、不信心者も信者さんといっしょに豚汁をいただいた。つかれた胃の腑にあつあつの豚汁がしみる。うまい、と思わず大声が出た。まだ薄明のそこここに懐かしい顔が見える。震災直後から鷹取救援基地に集い、ボランティアとして活躍した若者たちの10年後の顔・姿である。そのころは、タローだとか、タイショウだとか、ラッパだとか、ハナコだとか、ベビーだとか、みんな基地ネームで呼び合っていたので、いまでもその名前しか知らない。いま何をしているかも、わたしは知らない。しかし、かれらと過ごした「鷹取救援基地の日々」とかれらの活動は知っている。わたしがそれを忘れることはない。

 午前10時。きんちゃん(金原雅彦さん=このウェブサイトのデザイナーで編集人)が、わたしの写真を撮るために御蔵から鷹取へきた。関東に住むきんちゃんは、震災後ピースボートの船でボランティアとして神戸へやってきて長田区御蔵地区へ入った。あらばきのおばちゃんが発行した『デイリーニーズ』を配って歩いた。活動はもちろんそれだけではない。以後もずっと、この地区の復興過程に関りつづけ、あるとき友人から「おまえ、まだ神戸をやってるのか」といわれて、E-mailのアドレスを「madakou」としてしまったくらいの筋金入りである。だから、いまもこの時期は毎年、御蔵にいる。きんちゃんの阪神被災地への関りと拘りがいかなるものかは、かれの主宰するウェブサイト「震災発。──阪神・淡路大震災の記憶」( http://www.shinsaihatsu.com/ )を開いてみてほしい。これは、阪神大震災に関する町場の情報・データ・資料を収集しようとする壮大な試みである。わたしは、きんちゃんの高い調査力と収集技術に期待している。百聞は一見に如かず。スタートして間もないサイトだが、ぜひたずねてほしい。

神田裕 神父(左)とペーパードームの前で
神田裕 神父(左)とペーパードームの前で

 そのきんちゃんが、このコラム用にわたしの写真を撮りにきた。スタッフの千葉景房、村本勝もくわわって、大国公園とたかとりコミュニティセンターで撮ってもらう。たかとりコミュニティセンターでは、かんちゃん(早朝のミサをつつがなく終えて、FMわぃわぃのスタッフ・ジャンパーとジーパン、首に白いタオルという平服にもどった神田神父は、かんちゃんと呼ばれる)とも一枚。きんちゃんのカメラを見て、「デジタルでない一眼レフで写されたのひさしぶりやわ」。

高木良行さん(右)と作品の前で
高木良行さん(右)と作品の前で

 ペーパードームで、地域に住む高木良行さんが自作の絵の個展をやっていて、その作品のまえで高木さんとツーショットを一枚。高木さんは画家ではなく素人の絵描きさんなのだが、その作品は題材、技法ともに玄人はだしである。震災からの復興の時々を描いた
高木さんの「ひまわりシリーズ」
「ひまわりのシリーズ」が、わたしは好きだ。高木さんは、地震後の火災で家々が焼けてしまった跡の更地に、自分たちが蒔き花開かせたひまわりを主題にして歌もつくっている。高木良行作詞、橋本康彦作曲、河合俊造編曲の「夢光る街を」である。かれらは「復興隊」を名乗ってこの歌をうたった。被災者自身による被災者への応援歌である。

「復興隊」で編曲とヴォーカルをつとめた河合俊造さん(俊ちゃん)は、3年半ほどまえに若くして逝ってしまった。40歳になるかならぬやである。弟のせっちゃん(河合節ニさん)とふたりで、地震のその日の人救助からはじまった俊ちゃんの「再生の日々」は、野田北部まちづくり協議会の若手としての活動であった。他人が意見をいうときには、いつも微笑んで、「せやな、せやな」と相槌を打ちながら、自分をつよくは出さなかったが、地域活動のものづくりの場面では職人らしく音頭を取った。俊ちゃんは黒板職人だった。酒が好き、煙草が好き、競馬が好き、ほかに趣味はなしというと無頼なイメージをもたれるかもしれないが、なにかにつけて控えめな人だった。「野田北部まちづくりニュース」の編集もしたが、このものづくりは苦手のようだった。口の立つせっちゃんと、弁では舎弟に負けるが手の高い俊ちゃん、好対照の兄弟であった。せっちゃんが葬儀の挨拶でいった、「兄貴というより復興の同志でした」。

 俊ちゃんが亡くなって、俊ちゃんの残した遺産で「河合俊造基金」がつくられた。その趣旨は、野田北部・鷹取地区のコミュニティ形成を推進する活動や事業を支援応援しようとするものであるときいた。晩年というにはあまりにも早すぎる晩年を、地域の復興に尽くした俊ちゃんの意志を継いで、せっちゃんとお母さんが設立した。せっちゃんから「基金」をつかって、記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』全14部をDVDにしないか、という申し出をいただいた。ありがたかったが、われわれの仕事より先に使うべき企画や事業があるでしょうと固辞した。昨年、震災10周年の地域の記念としてDVDを、と再度せっちゃんからお話をいただいて、こんどはよろこんでお受けした。

 DVDには特典映像が付きもので、それを昨年の夏と秋に集中して撮影した。地震から9年半がすぎた「いま」の思いを25人の人たちに訊いた。住民が中心で、専門家、行政マン、ボランティアなど、野田北部・鷹取の復興活動にそれぞれの立場で関った人たちへのインタヴューである。それを2人づつ各部に振り分けて収めた。こうして出来あがった、記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』全14部のDVD版を、きょう、1月17日に世に出した。あらためて、俊ちゃん、ありがとう。

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