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青池憲司のコラム 眼の記憶 二都物語あるいはインターコミュニティのすすめ

2003年12月1日

回のコラムで報告した、『調布まちづくり 上映とシンポジウム』のような催し、集会、交流は列島各地で行なわれています。被災地KOBEの住民と交流することで、阪神大震災後の住民活動から学び、自分たちのまち・地域のコミュニティ活動の参考にしようというものです。あるいは、交流することで、地域がもつ人・文化・物産など、おたがいの特性を友好かつ有効に利用しようということもあります。これらの交流は、震災後の救援活動やボランティア活動がきっかけとなって始まったものがすくなくありません。わたしが見聞した交流のかたちを紹介します。


■神戸市長田区野田北部と福島県三春町の交流

春町から建築士や大工さんたちが野田北部入りしたのは、震災直後の1995年2月のことでした。目的は、損壊のあまり大きくない住宅の修復でした。あのころは、全壊・半壊家屋の修理解体工事は始まっていましたが、一部損壊程度の修復を手がけてくれる建築業者はなかなかいませんでした。地域のあちこちで、鋸を引く音、鉋をかける音、金槌をふるう音、弾む住民さんの声――そんな日常的な音・声に、その場面を撮影していたわたしたちスタッフも、再生の息吹を実感したものでした。大工さんたちは、ほぼ2週間、休業中の銭湯の2階に泊まりこみ、食事はほかのボランティアといっしょに、銭湯の真向かいにあった鷹取救援基地で摂っていました。予定の期間を終えた大工さんたちは、受け取った修理代金を野田北部まちづくり協議会に寄付してかえっていきました。

 野田北部の大国公園に一本の桜の木があります。日本三大枝垂れ桜のひとつ、「三春滝桜」です。震災の翌年(96年)に三春町から、復興の思いをこめて贈られた若木です。その後も、野田北部の人たちがお礼に三春町を訪ねたりして交流はつづいてきました。2002年の春には、三春町立桜中学校の修学旅行生徒約40人が野田北部を訪れました。震災当時小学生だった生徒たちは、震災直後の神戸での父親たちの働きを知り、この地を修学旅行の訪問先のひとつに選んだのです。その桜木のある大国公園で、生徒を迎えた野田北部の人たちは、「助けてもらったから、いまのわたしたちがある」と語り、地域を案内しました。震災後に端を発した両地域のこのような交流活動は、父親世代の体験が、こどもたちの世代に記憶として受け継がれていく可能性を予感させるものです。

 阪神大震災後の救援活動やボランティア活動をきっかけとして、被災地KOBEと非被災地の地域が繋がり、交流をふかめていった一例をかきましたが、このような「二都物語」は枚挙に暇がありません。数多くあります。そして、二都物語は列島内の地域と地域だけではなく、KOBEと海外の地域との間にもみられます。


■神戸市長田区御蔵通5・6丁目と台湾・南投縣福亀村の交流

湾では1999年9月に「台湾中部大地震」が発生し、2400人以上の死者を出すなど、大きな被害がありました。南投縣福亀村はその被災地のひとつです。御蔵と福亀村の人びとの交流が始まったのは2000年2月。交流は、震災体験の共有や意見の交換だけでなく、台湾の被災地出身の留学生を御蔵で受け入れるなど、住民どうしのネットワークづくりが進んでいます。ことし2月には御蔵の人たちが2回目の福亀村訪問をして、両者の交流は非常時のそれから平時の付き合いへと幅を広げつつあります。国という枠・フレームを越えて、住民どうしがダイレクトに結びつくことの素晴らしさ、国境を軽がると踏み越えて世界を水平に繋いでいく可能性の萌芽がここにはあります。

たしは、上記2例のような地域どうしの付き合いを「インターコミュニティ」とよんでいますが、それが従来からある地域交流とことなるのは、地域間の繋がりかたが行政を介したものではなく、住民どうしの自発的自律的な連繋であることです。はじめは住民個人あるいは住民数人での付き合いが、だんだん広がって地域ぐるみの住民交流になっていきます。官主導ではない、住民主体のインターコミュニティはすこぶる気分のよい付き合いのようです。

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