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青池憲司コラム眼の記憶10

第4回 新宿で/1.15
2010.2.5

 1月15日(金)。KOBEへ向うまえに新宿へでて、東京都庁舎の大会議室で行われた、「首都直下地震からのまちの復興〜住民・地域ができること〜」というシンポジウムに参加した。これは、いま、わたしが進めているドキュメンタリーの企画と関連するテーマであり、また、KOBEからせっちゃん(河合節二・野田北ふるさとネット事務局長)がパネリストとしてやってくるので、外すわけにはいかない。会は、せっちゃんの基調講演ではじまった。かれは、野田北部の復興まちづくりのプロセスを語って飽くことがなかった。わたしは、二つの発言に注目(耳)した。

 一つは、非常時のまちづくりから平時のまちづくりへの変わり目を住民自身が意識したのはいつで、何がきっかけだったかということである。それは、「ごみ、放置自転車、落書き、ポイ捨てなど、身の周りの問題に気づいたときで、2001年頃ではなかったか」と、せっちゃんは話した。ひっきりなしに立ちあらわれてくる問題の処理に忙殺されながら毎日を送り、震災からの復興まちづくりという非日常がいつのまにか日常となっていた日々。その日々からの脱却、非常時まちづくりから平時のそれへの意識の切り替わりのきっかけが、行政主導のセレモニーやイベント、メディアの総括などではなく、ごみ、放置自転車、落書き、ポイ捨てなどなど、まことに日常的な光景に目がいったときのことだというのはじつに腑に落ちる話である。切り替わりというと、何かが終って次がはじまる、ととらえがちだが、生活の連続のなかで、まちづくりの初心と原則を変えないために、その対応の仕方を変えていく、野田北部らしいギア・チェンジである。

 せっちゃんのもう一つの発言、これは強烈であった。「きのうの被災地KOBEでは震災のあとに復興まちづくりがはじまった。明日の被災地TOKYOでは「恊働復興模擬訓練」をしている。これは、地震のくるまえに自分のまち(地域)が被災したことを想定して、被災後のまちづくりを被災前からはじめておこう、というものでオモシロイ事業だと思う。わたしも訓練に呼ばれて体験を語ったことがある。しかし、はっきりいって、やりかたがちょっと中途半端ではなかろうか。たとえば、住宅密集市街地などは、そのまち(地域)の住民全員を仮設住宅に移してでも、まち(地域)のかたちそのものを造りかえてしまう。それくらい、既成の制度と思考からハズレたことを発想しないと、訓練とはいえ気休めのシミュレーションに終ってしまうのではないか」(発言の大要)というのだ。

 せっちゃんも自覚のうえだろうが、これはそうとうに乱暴な意見である。それを承知で挑発的にいうのは、かれのなかにTOKYO(明日の被災地)へのいらだちがあるからかもしれない。それは、阪神大震災からの15年間、自分たちの被災経験とそこから考えられた復興の知恵と技術が、どのように非被災地へ届いているのだろうかという思いや、こちら(明日の被災地住民)のヤル気のホンキ性の見えなさや、それやこれやがないまぜになってのいらだちではなかろうか、とわたしは感じた。せっちゃんが概要上記の発言をしたとき、会場には、いい方はむちゃだけど妙なリアリティがあって一笑に付すわけにもいかないなあ、という空気が流れた。確信的な暴論あるいはビーンボールの効用である。

 ところで、「恊働復興模擬訓練」なるものを、わたしは次のように理解している。――地震がきて、災害を受け、そこから、復興まちづくりをはじめるのなら、地震がくるのを待たずに(首都圏に直下型地震がくる確率はむこう30年の間に7割といわれているが、べつに待っているわけではない)、いまからまちづくりをはじめてはどうか。まち(地域)のなかで、災害時に危険や不具合のある場所は、災害がなくても危険で不具合な場所である。だったら、いまから、その改善をしていけば、日々よい地域環境がえられるし、万万が一、地震がきて被害を受けたら、震災前の活動はそのまま復興活動に役立つことになる。災害時の以前と以降は連続しているのだから、阪神大震災のKOBEとちがって、TOKYOは平時のまちづくりから非常時のまちづくりへと向うのである。

 都庁でのシンポジウムを終えて、せっちゃんとわたしはKOBEへ向った。

平成21年度震災復興シンポジウムを開催します!- 東京都都市整備局

首都直下型地震からのまちの復興- 大桃美代子オフィシャルブログ「桃の種」

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