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青池憲司コラムさまざまな震後2013

第2回
2015.6.8

【2013年7月19日付で第1回を掲載し、怠慢頓挫していたコラムを再開します。よろしくおねがいします。】

東北地方太平洋岸を襲った災厄から4年の歳月が過ぎました。わたしは、被災はしていませんが、その間の日日を、わたしなりに震災と向きあってきました。標題の連載を再開するにあたって、そのあたりを、まず、わたしのフィルモグラフィでふりかえってみます。(第1回と多少の重複がありますがご容赦を。)

2011年〜12年=『津波のあとの時間割〜石巻・門脇小・1年の記録〜』、『3月11日を生きて〜石巻・門脇小・人びと・ことば〜』を監督し、石巻市立門脇小学校のこどもたちと、地域の人たちの日日の活動を記録。(製作はいずれも、映画「宮城からの報告〜こども・学校・地域〜」製作委員会)。

12年夏=『希望の樹〜大槌アート日台共同プロジェクト〜』(製作/被災地市民交流会)をプロデュースし、岩手県大槌町の高校生と台湾の美術家たちが協働して、津波による流失を唯一免れたビルに壁画を描く活動を記録。=『大船渡ベース2012年夏』(製作/大船渡プロジェクト)をプロデュース し、カリタス・ジャパン大船渡ベースの、ボランティアによる被災者支援活 動や、フィリピン人コミュニティ「パガサ会」の活動を記録。

13年夏〜14年春=『東日本大震災復興まちづくりの現在2013年秋』(製作/丸善出版株式会社、LLPまちづくりを記録する会)を監督(石巻篇)、プロデュースし、岩手県・釜石市、大船渡市、大槌町、山田町、宮城県・気仙沼市、石巻市、山元町、福島県・浪江町の4市4町の復興状況を記録。

このほかにも、わたしの活動拠点の一つである「多文化学校」(新宿区大久保)で、震災関連の講座を数回開き、首都圏と石巻圏から被災外国人を招いてトーク・イベントをしました。現代学校運動JAPANの学習会でも折に触れて石巻の話をさせてもらいました。

このような日日にも、たびたび石巻を訪れ、門小映画の撮影時に知遇を得た人たちと対話するうちに、ある思いがわたしの胸中にひろがっていきました。そのへんの事情を綴った一文があるので引用します。14年3月に書いたものです。

「思案していたのですが、被災地石巻がこれからどのように再生復興していくのかを主題にした、新しい映画の製作をはじめます。わたしにとっての石巻とは、まずは門脇・南浜地区とそこに住む住民さんのことにほかなりません。いまの住民さん(23世帯、60人、小2から82歳)と、今後かえってくる予定の、あるいは新たに住民となる人たちが、どんなコミュニティをつくるのか、そのプロセスを記録したいと考えています。そこには、これまでの3年間とはまた異なる困難があることは言を待ちません。4年目からの記録も大事だと考えます。新作の撮影対象は主に、門脇・南浜地区ですが、中央1丁目〜2丁目(中心市街地)のまちづくり活動なども視野に入れたいと考えています。長期の仕事になるでしょう。」

そんなわけで、昨年(14年)3月9日から新作の撮影をはじめましたが、これはもう記録表現者の業というか、わたしにとっての石巻ドキュメンタリーはまだ終っていないというほかありません。製作主体は、わたしを軸としたグループの自主製作。撮影スタッフは、一之瀬正史キャメラマン、村本勝編集者、山田武典キャメラマンほかのメンバーで、撮影は、これまでホボ毎月3日〜7日のペースで進行しています。

門脇・南浜地区は津波のあとの惨状がかたづいたとはいえ、放置された状態が長くつづいていました。『3月11日を生きて』や『津波のあとの時間割』にあった風景が、"キレイ"になっただけで(それはそれでたいへんなことですが)、新しい建造物はなにもありません。その一方で、大きな水溜りとしか、わたしには見えない湿地が何か所かできています。南浜一帯はもともと日和山からの地下水と石巻湾からの海水が入り混じるところで、震災前は旧北上川に設置されたポンプで排水していたため地表に出てくることはありませんでしたが、被災でポンプが破壊され、その後はそれが窪地に溜まるようになった、ということです。

日和山からの地下水は、自然の養分(ミネラル)を多量にふくんでいて、汽水の溜りには小さな生きもの(ミナミメダカ)の姿が見えます。一面の草叢と湿地群は原野と呼ぶにふさわしい景観です。その原野が、コミュニティに変容していくプロセスを見つめるのが、新作映画の主題といえます。

いま門脇地区(2丁目〜5丁目)には、震災前から2丁目、3丁目、4丁目に住んでいて、津波の被害を受け一時避難したが、早い時期に自宅を修復して暮しはじめた人たちが住んでいます(23世帯、60人、小2から82歳)。かつての町内会は異なりますが、横断的に「まねきコミュニティ」という相互扶助的な自主組織をつくっています。

代表の本間英一さんが編集する〈門脇町2〜4丁目コミュニティニュースNo.1〉に次の記述があります。「3月12日〜。一部の住民は避難所から降りてきて、生活できる世帯は自活を始めた。残された家から食料や生活用品を確保し、生き延びるために各自働き始めた。生活に欠かせない水は日和山中腹の「井戸っこ清水」より汲むことができ、煮沸するなどして使用した。しかし、生活道路は瓦礫のため全く通行不可で当面、日和山からの道路が唯一の交通手段であった。その後、門脇小学校体育館脇からと西光寺本堂の中を通る通路が自然と出来上がった。また数軒は共同炊事を行い、1ヶ月間にわたり夕食を共にした。」

地震と津波の直後に自然発生的にうまれた助け合いが、そのご、必然的な地域活動に転じていった、このコミュニティのありように、わたしはとても関心があって、撮影の第1回(2014年3月9日〜11日)を、まねきコミュニティの「3月11日慰霊の集い」、本間英一さんインタヴュー、西光寺本堂での法要を中心に行いました。門脇地区で213人、南浜地区で74人、雲雀野地区で7人の方が亡くなっています。

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