Homeコラム > 眼の記憶09-3
青池憲司コラム眼の記憶09

第3回 往還 〜KOBE・南木曽・世田谷〜(2)
2009.2.13
野田北部・たかとり震災資料室は入り口のすぐ横にある
看板とともに筆者

 1月17日(土)午前10時。たかとりコミュニティセンター(カトリックたかとり教会)内に開設された「野田北部・たかとり震災資料室」の開所式が行なわれた。野田北部・たかとり震災資料室は、施設の規模は小さなものだが、展示する内容量は豊富膨大多種多様である。そのため、3か月ないし6か月ごとの入れ替え展示を計画している。オープニングは、野田北地域の被災状況や住民の復興活動をたどる写真、鷹取救援基地(当時)ボランティアの支援活動をつたえる写真、被害図、まちづくりプランの模型などが展示された。わたしたち野田北部を記録する会が制作した資料映像『震災復興のあゆみ〜あの時と今〜』(DVD、33分)も開室時間中は大型画面でエンドレス上映される。

様々な資料が揃っている
資料映像『震災復興のあゆみ〜あの時と今〜』を放映

 開所式のセレモニーには、地元の住民さんをはじめ関係者が多く参集して賑わった。まず、テープカットがあり、震災資料室を主宰する「野田北ふるさとネット」の河合節二事務局長から資料室の意義と設置に関わった人たちへの謝辞があった。つづいて、諸関係者の挨拶がつづいた。この地域の復興の知恵袋として活動した建築家の森崎輝行さん(資料室の展示レイアウトもした)。つねに住民サイドに軸足を置いた復興まちづくりプランを案出してきた小林郁雄さん(現在、「人と防災未来センター」上級研究員)。この地で被災し、たかとりコミュニティセンター代表で神父の神田裕さん、らである。それぞれに、14年の振り返りと、震災を記憶しつたえつづけることの思いを語った。ちなみに、資料室は、「兵庫県 阪神・淡路大震災復興基金 まちのにぎわいづくり一括助成事業」によってつくられた。

 1月17日に被災地KOBEに滞在して感じるのは、「復興まちづくりからはじまった住民活動に終りはない」ということである。毎年毎年、そのことをつよく実感する。阪神大震災で抱えこまされた、途方もなく大きな喪失感と欠落感をともないつつ、まち(地域)は、住民自身の手で倦むことなく確実につくられつづけている。その現われのひとつが、震災15年目に入るこの時に開設された震災資料室である。わたしたちが被災地KOBEから学ぶことは、こうした、日々の弛まぬコミュニティ活動であろう、とわたしは考える。

 このコラムを書いているいま、『野田北かわらばん94号』(編注:リンク先にて閲覧可能)が送られてきた。そのなかに、ふるさとネット事務局名でこんな記事があった。一部を引用させていただく。「昨年から今年にかけて、視察・見学・研修で野田北部に各地から多くの方がお越しいただいています。最近の傾向は、あまり遠くの方々でなく関西圏が増えてきたように思います。それも木造密集地区にお住いの方々。思い出してください、震災前の野田北部はどんなまちだったのかを…そんな野田北部が14 年前に壊滅的被害を受け、復興プロセスを経ていまの姿の新しいまちになったことで、その過程を視察・見学にこられているのです。でも、お話のなかで、必ずといっていいほど質問されることがあります。それは、『あんたらのとこ、震災がなかったら、いまのこんなまちになってるか?』です。はい! ぐうの音も出ません。地震で酷い目に遭ったから、復興に向かってここまできたのです。」

(c)2003-2020 The Group of Recording Noda Northern District. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system