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青池憲司コラム眼の記憶09

第14回 KOBE〜中越、そして(4)
2009.7.23

(承前)

 ご存知のように、『多文化共生センター』は、阪神大震災直後、『外国人地震情報センター』としてはじまり、そのご改称・改組織して、いまは、外国人のさまざまな問題のサポートを行うとともに、地域での日本人と外国人の共住環境づくりに取り組んでいる。『多文化共生センター大阪』のほか、神戸、東京、京都、広島にセンターがあり、おなじ名乗りながら、それぞれが独自に活動している。『FMわぃわぃ』は、やはり震災直後、5言語で震災情報を伝える無認可海賊放送『FMユーメン』として出発し、そのご『FMわぃわぃ』へと発展。1996年1月、震災1周年の日に認可され、コミュニティ・ラジオとして、現在は11言語でさまざまな発信を行なっている。

 中越地震以前、『長岡市国際交流センター』と『多文化共生センター』、『FMわぃわぃ』の間には特別の交流があったわけではない。地震直後、中越被災地には、KOBEをはじめ全国から多くの支援が集った。人・モノ・技術、市民ボランティア・専門家・行政職員など。そのなかに、『多文化共生センター』の田村太郎さん(同・大阪理事長)と、『FMわぃわぃ』の日比野さんや『FACIL』の吉富さんがいた。田村さんは、地震の翌日、長岡へ入り現地の状態を見聞すると、日比野さん、吉富さんに電話をいれた。「中越でいっしょに活動しませんか」。電話を受けたふたりに否やはなかった。KOBEの3団体には、阪神大震災後の復興過程で獲得した緊急時活動の知恵と技術の蓄積があった。(後日の田村、日比野、吉富3氏へのインタヴューによる)

 3団体が行なった中越地震復興支援活動は、直接的には、『長岡市国際交流センター』と『FMながおか』の2団体に対してであった(後者との連携については後述する)。具体的には何をしたのか? 情報の翻訳である。被災地では、毎日、復興にかかわるさまざまな生活情報が行政から発表される。もちろん、それ以外の大事なお知らせもある。その内容を理解することは、日本語を母語としない、文化的な背景もことなる外国人にとってはなかなかむつかしかった。ましてや、手続きの書類に並んでいる難解な行政用語には完全にお手上げだった(これは日本語を母語とする人でさえ難渋する)。日本語の情報チラシや書類を手に、かれらはこまりはてていた。

 情報を、それを必要とする人たちの母語に翻訳する作業は、しかし、現地ではなかなか捗らなかった。理由は、先述したように、人材の数にかぎりがあること、それに携わる人たちもまた被災者である、ということによる。そこで、日本語の震災情報を長岡市国際交流センターからEメールでKOBEへ送り、3団体で必要な言語に翻訳し、それをセンターへ送り返す、という作業がはじまった。送り返されてプリント・アウトされたペーパーは地球市民の会などのボランティアが避難所ほかに配った。羽賀友信センター長はいう、「KOBEの後方支援がなければ、こんなに多くの情報量を持って、こんなに迅速に動けなかったでしょう」

 これは、阪神大震災のときには考えられなかったアクションである。当時は、言語系のボランティアをインターネットで結んで翻訳作業をするなど、発想もなかったし、あったとしても、その環境は整備されていなかった。作業は被災地のなかで完結せざるをえなかった。たとえば、『被災ベトナム人救援連絡会』の人たちは、日本語からヴェトナム語に翻訳した原稿を手書きで書き取り、それをコピーして配った。配り終えて帰ってくると、もうそこには次の情報が待っていた。それから9年後の中越地震では、インターネットを駆使しての被災地と非被災地間の共同作業が活発に行われた。

 災害のとき、被災地は一時的に、人の活動もインフラも機能不全に陥る。とすれば、そうした事態に備えてさまざまな救援の網を、しかも全国的なネットワークを構築しておく必要がある。そのネットワーキングをいそごう。――というのが、羽賀さんが中越地震から導きだした教訓であった。じっさいに羽賀さんは、KOBEとの共同作業経験をもとに、全国市町村の地域国際化協会やJICA、民間団体などとの協力による外国人の支援システムを立ち上げつつある。KOBEから中越へリレーされた震災復興活動の一つの技術が、その地で活かされ、その地の創意工夫を付け加えられてさらに進化していく。

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