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青池憲司コラム眼の記憶09

第13回 KOBE〜中越、そして(3)
2009.7.19

 新潟県の長岡市へは仕事で何度かでかけたことがあったが、2004年10月23日におきた「新潟県中越地震」以後に訪ねたのは今回がはじめてである。数か月後に被災5周年をむかえようとしている初夏の午後、長岡駅に降り立った。まず、まちを歩く。駅から真っ直ぐに伸びる大手通りを行く。大通りなので車道も広いが、印象的なのは歩道の幅が広いことである。歩きやすく視界がワイドになるので爽快。ひさしぶりの長岡のまちはじつにきもちがいい。どこまでも歩いて行きたくなるがそうもいかない。

 今回の訪長の目的は、阪神大震災の復興のプロセスで培われた、住民・専門家・ボランティア・行政などによる、「人とまち」を再生する活動が、その後の災害にどのように役立てられていったか。KOBEの知恵と技術は、中越地震の被災地へどのように伝えられ、機能したのか。その軌跡をたどってみたい、というものであった。復興活動の知恵や技術の継承と発展は、次ぎにくる災害への備えと被災時の対応に欠かせないノウハウであるとともに、非常時を越えて、平時のより住みやすいまち(社会)をつくる大きな推進力となる。KOBEから発信され、さまざまな被災地の人びとを繋いでいった実践を、中越被災地で聴き歩いてみたいと考えたのである。

 その目的で最初に訪ねたのは「長岡市国際交流センター」である。センター長の羽賀友信さんにお会いした。羽賀さんに会うことをすすめてくれたのは、KOBEの吉富志津代さん(多言語センター『FACIL』代表)と日比野純一さん(コミュニティラジオ『FMわぃわぃ』代表)である。羽賀さんは、長岡市出身、国際協力活動で海外の仕事が長く、2002年現職に就いた。中越地震当時、長岡市と周辺には約5000人の外国人(52か国と地域。ブラジル人、中国人が多い)が在住していて、国際交流センターでは地震以前から、かれらと日本人をつなぐ地域の国際化に取り組んでいた。地球市民の会というボランティア・グループをつくり、その会員がさまざまな国際交流や国際協力イベントの企画・運営を行ない、外国人との相互理解を深める活動を行なっていた。

 羽賀さん「初冬の日の夕方の地震で、停電で闇のなかに閉じ込められ、救援活動がはじまったのちも孤立したままの外国人がたくさんいた。また、地震そのものを知らない人も数多かった」「避難所には、外国語のできるスタッフをすぐ派遣した。9言語の『避難所案内』や『復興生活情報』を書いた掲示シートを貼りながら、120か所の避難所にいた外国人の状況を詳細に聴き取った。これは、県外から駆けつけてくれた言語系のボランティアに、かれらの活動と作業を混乱なくしてもらう上で大いに役立った」

 長岡周辺で外国語が話せるボランティアはかぎりがあるし、かれらもまたすくなからず被災していた。地元をよく知るNPO団体・グループ・組織などは、災害の渦中にあってさまざまなダメージを受けていた。そんなとき、非被災地から寄せられるボランティア活動は、それも、それぞれの特技を活かした行動は、あるとき、側面援助にとどまらず、そのプロジェクトの中枢を担うことがある、と羽賀さんはいう。「その一例が、『多文化共生センター』と『FMわぃわぃ』からの支援でした」

(この項、つづく)

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