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眼の記憶08

第7回 高杉一郎さんのこと――遅れてきた読者として
2008.3.31

 ことしの1月9日に高杉一郎さんが亡くなって、わたしは、はじめて高杉さんの著作に接した。それは、『極光のかげに―シベリア俘虜記』(1950年目黒書店、現在は岩波文庫で読める)である。いまになって? 高杉さんと? はじめて? といぶかしがる向きも多かろう。そう、半世紀余おくれのいまになってである。そんなわたしでも、この本が、戦後記録文学(ノンフィクションという呼称ではなく)を代表する作品で、ベストセラーにもなったということは知っていた。高杉さんがエスペランティストで、大正期に滞日したロシアの盲目のエスペラント詩人、ワシリー・エロシェンコの全集(全3巻、みすず書房)を編訳し、それが高く評価されていることを知っていた。アメリカ合衆国のジャーナリストで、とくに中国共産党に関する著作で知られるアグネス・スメドレーの伝記や翻訳があることも知っていた。フィリッパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』(岩波書店)など、英語やロシア語の児童文学の翻訳書が多数あることも知っていた。

 しかし、わたしは、高杉さんが亡くなるまで、翻訳書の『トムは真夜中の庭で』以外の、高杉さんの書物をどの一冊も読むことがなかった。なぜだろう。『極光のかげに―シベリア俘虜記』が発表された1950年はわたしが小学生、岩波文庫版の刊行が1991年でわたしはシベリア抑留問題に関心がなかった。その書の存在は知っていたが、シベリア抑留問題の書(いわゆるシベリアもの)という紹介のされかたが、わたしがこの本と距離をとってしまった理由かもしれない。注意不足であったがいたしかたない。では、いまなぜ本書を手にしたのか(といいつのるほどのことでもないが)。畏友村田栄一さんとの旅の途次、おたがいがさいきん読んだ本の話になり、高杉一郎を読み返している、という村田さんの言からひとしきり高杉さんの話になった。その会話が、わたしを高杉さんの著作へと向かわせる引金になった。そして、どんなに時をへだてたとはいえ、わたしは、同書および『スターリン体験』(岩波同時代ライブラリー1990年)、『征きて還りし兵の記憶』(岩波書店1996年)の3作品に出会えてよかった、高杉一郎という精神に出会えてよかったとおもっている。

 高杉一郎さん(1908〜2008)は、終生にわたって、スターリン主義、スターリン体制と対決した人であった。上記3冊を読めばそのことはよくわかる。高杉さんは、出版社(改造社)勤務ののち、1944年に36歳で徴兵された。ハルビンで敗戦をむかえ、そのままシベリアへ送られ、その各地で4年間の俘虜生活を送った。その抑留体験記が『極光のかげに―シベリア俘虜記』である。そこには、日本人抑留者の苛酷な労働の日常が、俘虜収容所(ラーゲリ)の内外で接触したソヴィエト軍人や民衆の人となりと生活が、シベリアの流刑労働者の苦渋が、スターリン体制の非人間性(それはソヴィエト民衆のみならず日本人抑留者にも襲いかかってきた)が、高杉さんの「できるだけ素直に、偏見から自由な眼で、現象の奥にかくれているものを見なけりゃいけない」(前掲書)という思考態度で表出されている。キャメラ・アイのように即物的な観察眼と、柔軟で分析的な記憶の編集、――そこには、類書にまま見られる悲憤慷慨と感傷はいっさいない。

 高杉さんが4年間をおくった俘虜収容所(ラーゲリ)は、「二重の有刺鉄線で囲まれ、監視望楼からの照明とシェパード犬に警戒されていた家畜のような生活。厳寒のなかで自動小銃を肩にした警備と作業監督に監視されながらの重労働。」(『征きて還りし兵の記憶』)が強制されるスターリンの獄であった。その獄には60万人を越える日本人将兵がつながれていた。「考えてみれば、敗戦後シベリアに連れていかれた六三万九六三五名(ロシアの『戦史』誌一九九〇年九月号による)の関東軍将兵は、そこで死んだものも、生きて祖国に還ったものも、すべて日本軍国主義のいけにえであったと同時に、スターリニズムのいけにえでもあったと言えよう。」(前掲書)。「スターリニズムのいけにえ」になっていたのは日本人だけではない。シベリアにつくられたおびただしい数のラーゲリ(スターリンの獄)には、ドイツ人、ポーランド人、ソヴィエト連邦内の諸民族も収容されていて、高杉さんの耳目は彼ら彼女らにもそそがれている。高杉さんのスターリン体制批判は民族や国家を越えているとともに、批判を政治的に政治の言語でするのではなく、民衆の集団的な記憶として民衆のことばで展開しようとしている。そのことはいまなお新鮮である。

 高杉さんのシベリア抑留記を読んで印象ぶかく心にのこるのは、転々と移動させられたラーゲリの土地土地の環境(風物、景観、気候)や、各収容所を管理監督するソヴィエト軍人、さらには、その地に暮す人びとの言動と人情が。抑制の利いた、ときに詩的な筆致で描きだされていることである。高杉さんは、シベリア抑留地のラーゲリ内外でさまざまな事件や人びとに遭遇するが、その出会いを、先述したように、「できるだけ素直に、偏見から自由な眼で」見聞し書き留めている。「人生には、すぐに忘れさってしまう事件も多いが、決して忘れることができない、いや、よりよき未来のために忘れさってはいけない事件もあるのだ。」(『スターリン体験』)。そのような体験を書き綴った『極光のかげに―シベリア俘虜記』は発表当時(1950年)の日本社会でどんな評価を受けたのか。ベストセラーになったくらいだから、世間の大方の興味を引きつけたわけだが、読まれた結果、どのような大衆的オピニオンが形成されていったのか。いわゆる暴露本でも告発本でもない、むしろ、しずかな省察の書といってよい本書が多くの読者をえたことは、その評価はさまざまであれ、日本社会に戦後復興のエネルギーがまだ活きていた証左であろうか。

 『極光のかげに―シベリア俘虜記』には、右翼保守陣営はいうにおよばず、左翼革新陣営(の政治家、文学者、文化人、活動家ら)からのバッシングが相当にあったことを、高杉さん自身が『征きて還りし兵の記憶』のなかで詳述している。それはそれで興味ぶかいが、ちょっと不思議におもったのは、この書が第24回芥川賞(1950年=昭和25年下半期)の候補作になっていることである。同書が小説とみなされていたとはおもえないが、当時の芥川賞は記録文学も対象になっていたのか。いずれにしてもこの期の賞該当作はなく、川端康成がこんな選評をのこしている(抜粋)。

「委員会に私は出席できなかったので、どういう論議によって、授賞作品がないということに落ちついたのかは知らないが、高杉氏の『極光のかげに』を除いては、見るべき作品がなく、出席委員諸氏の決定はやむを得ないと思う。しかし、私は『極光のかげに』へ一票入れておいた。この作品には授賞したかった。他の候補作と差があり過ぎるほどだ。」。ちなみにほかの選考委員は、丹羽文雄、石川達三、岸田国士、滝井孝作、宇野浩二、佐藤春夫、舟橋聖一、坂口安吾で、『極光のかげに―シベリア俘虜記』に言及しているのは川端ひとりである。安吾がなにかいっているかと期待したのだが一言もなかった。

 ところで、高杉さんの上記3作品を読んで、わたしの想念はいまさまざまな方向へ放射している。長谷川四郎の方へ、石原吉郎の方へ、レフ・トロツキーの方へ、スペイン内戦の方へ、ジョージ・オーウェルの方へ‥‥‥。まずは、長谷川四郎の『シベリア物語』を再読しようか。

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