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眼の記憶08

第16回 メキシコ遊行(II)/土地と自由
2008.9.26
写真1 ディエゴ・リベラ『メキシコの歴史』部分
国立宮殿の正面階段の両側、2階回廊の半分以上をつかった長大な壁画。先住民の古代社会にはじまり、スペインの侵略、スペインからの独立、メキシコ革命までを描いている。写真はその一部「独立革命とメキシコ革命」。

 エミリアーノ・サパタ(1879〜1919)とフランシスコ・ビリャ(1878〜1923)が活躍した時代は、1910年代(明治末期〜大正中期)のメキシコ革命の真只中であった。サパタは小農の、パンチョ(フランシスコの愛称)・ビリャは貧農(ペオン)のこどもとして生まれ、ともに、メキシコ革命の農民勢力のリーダーとしてその生を生きた。

写真2 同。「Tierra y Libertad」のスローガンとともに立つのは、左からサパタ、マデロ、ビリャ

メキシコ革命は、中国の辛亥革命やロシア革命、トルコのアタチュルク革命に先立つ、20世紀最初の急進的で民衆的な武力闘争であった。彼らが求めたのは、ひとことでいえば「土地と自由」Tierra y Libertad(写真1、2)である。農地改革の実施、政治の民主化と社会の変革、労働環境の改革、外国資本の排除などであった。

写真3 ビリャ(中央左から2人目)とサパタ(その右)

 メキシコ革命は、35年におよんだディアス大統領独裁体制(1876〜1911)の打倒をめざした、マデロの武装蜂起にはじまった。1910年(明43)11月のことである。(マデロは、大農園主で、鉱山、銀行、工場を所有する特権階級であったが、政治の民主化と独裁反対の運動を展開し、のちに大統領に選出された。1913年、改革に取り組む過程で暗殺された)。この蜂起そのものは不発に終ったが、そのご、各地で革命勢力が行動を起こし、反政府運動は、極貧状態におかれていた全国の農民と労働者を捲きこんで疾風怒濤の展開をみせた。奪われた土地の返還を求めて立ち上がった農民たちの頭領のふたりが、メキシコ南部・モレロス州のサパタと、同北部のチワワ州を支配したビリャである(写真3)。

写真4 サパタと農民軍

 モレロス州は先住民が多く住み、伝統的な砂糖生産地帯であった。ディアス時代に砂糖生産が急増し、政府・大資本農園主は、サトウキビ農地を拡大するために、村落共有地や農民の土地を収奪した。農民はこれに武装して自衛、対抗した。それら農民勢力を代表するサパタ農民軍は、政府軍と熾烈な闘いをくりひろげた(写真4)。武闘のみならず、1911年11月には、略奪された農地、森林、水利権などの返還を要求して、土地問題に関する改革案「アヤラ計画」を発表した。1914年、ビリャやオブレゴンなど革命勢力諸派の指導者たちが一堂に会した「アグアスカリエンテス会議」で、革命綱領として採択された農地改革案はこの「アヤラ計画」にもとづいている。さらに、「アヤラ計画」の骨子は、1917年に制定された「1917年憲法第27条」にも盛り込まれた。「1917年憲法」は、メキシコ革命の成果の大きな一つであり、そのご改定されながら現行憲法としてある。

 パンチョ・ビリャがその軍事的才能と果敢な行動力で支配した北部メキシコのチワワ州は、鉄道建設、私有地の拡大、アメリカ合衆国資本の進出などで発展しつつあった。ビリャは、武力で奪取した大農園や銀行、工場などを資金源として強大な革命軍をつくりあげ、数々の戦闘で解放した土地の分配などに取り組んだ。1910年代のメキシコは、圧倒的な農業社会であった(総人口の約70%が農村に居住し、就業者の約67%が第1次産業に従事)。農地所有状況は、農村人口の90%以上が土地無し層である一方で、8000ほどの大農園が、国土総面積の60%を占めるなどその不平等には著しいものがあった。ディアス時代の近代化の過程で、大規模資本の農業生産者が農村共同体を破壊し、伝統的農民層の窮乏化が進行していた。

 そのような状況下で、連帯してメキシコ革命を闘った、サパタ農民軍とビリャ革命軍が掲げたスローガンは、「土地と自由」Tierra y Libertadであった。彼らがめざしたのは政権奪取ではなく、農地改革をはじめとする社会変革の実施であり、それは、不当に奪われた自分たちの生存手段の奪還と確保にほかならなかった。極端なまでに不平等な富や所得の分配状況を正していくことが、「民主主義体制の確立」におとらぬ、彼らの革命行動の動機であった。このスローガンは、以後、20世紀の革命運動の理念として、ロシア革命はいうまでもなく、スペイン内戦、キューバ革命、ラテンアメリカ諸国の反体制運動など、こんにちまで、つねに闘う民衆とともにある。

 群雄割拠あるいは頭領たちの離合集散のメキシコ革命運動のなかで、民衆から信頼され敬愛された、エミリアーノ・サパタとパンチョ・ビリャは、ともに暗殺という非業の死を遂げた(前者は1919年、後者は1923年)。はるかファー・イーストの地からは、ふたりは歴史の彼方へ去ったかのようにみえた。しかし、わたしが歩いた現地の町まちではまったくそうではなかった。死後90年になんなんとする今日でも、ふたりは、同時代人のごとく隣人のごとく、「ここ」にいる。いや、ごとくではなく、メキシコ人にとって、彼らはつねに、同時代人であり隣人なのである。そんなことをつよく実感しながら、わたしは、毎日まちを歩き、博物館や美術館をめぐり、タコス屋でタコスを食い、「XX」(ドス・エキス)という銘柄のビールを飲んだ。

(つづく)

<参考文献>

国本伊代・著『メキシコ革命』(山川出版社/世界史リブレット122)

吉田栄人・編著『メキシコを知るための60章』(明石書店)

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