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眼の記憶08

第12回 きょうこのごろ
2008.6.3

 さいきんのわたしは家事従業者である。すこしの家外労働と多くの家内作業あれこれ(炊事洗濯掃除)。家事専業の女性のように、胸を張って家事労働者とは、まだいえない。そのほか、月に、映画を2、3本見る、ヒトと4、5回酒を呑む(何ごとかの謀議)、本を6、7册読む、これらは、趣味ではなく仕事のうちである。このコラムをときどき書く(週1本のペースにしたいのだが実態は月2+)。「多文化学校」の校長の役割をする。だから、さいきんは、カントクではなく校長と呼ばれている(野田北部の福田校長には及ばないが)。テレビは毎日見るのはニュース番組で、このごろは、NHK―BS1の「きょうの世界」が気に入っている。海外メディアの報道に接するとおなじ事件でも異なる側面が見てとれて興味ぶかい。――そんな毎日をとくに勤勉でなくとくに怠けもせずにおくっている。ときどき、これでいいのか、とおもったりする。天才バカボンのパパなら、これでいいのだ! というだろう。わたしは、天才バカボンのパパのような、断固たる明晰さをもちあわせていないので、これでいいのかvs.これでいいのだ、が日夜パイ投げをしている。

 見た映画、読んだ本、酒場のバカっ話、町場で聞いた(聞こえた)片言雙句などなどの引用でわたしの日々は縁どられている。ある日の朝、手許の本を開くと次のようなことばがそこにあった。「彼が発見したのは、これまでは肥大化したイデオロギーによって隠蔽されていた単純な事実です。それはすなわち、人間はまず第一に衣食住を満たさねばならず、そのあとではじめて、政治、科学、宗教、芸術等々の探求に向かうことができるという事実でした。」。これは、1883年3月17日、ロンドンのハイゲイト墓地で行われたカール・マルクスの葬儀のさいに、フリードリヒ・エンゲルスが読んだ弔辞の部分である。(『友よ 弔辞という詩』サイラス・M・コープランド編/井上一馬訳/河出書房新社刊から引用)。そうなのだ、「まず第一に衣食住を満た」す運動、それこそが労働運動なのだ。まちへでてみると、街頭では、非正規労働者たちが「生きさせろ!」のプラカードを掲げてデモをしている。彼ら彼女らのアピール「生きさせろ!」は生存権の主張であり、エンゲルスのいう「人間はまず第一に衣食住を満たさねばならず」にほかならない。

 「生きさせろ!」といえば、ビルマ(ミャンマー)のサイクロン被害者のことがすぐにおもいうかぶ。彼らこそまさに生存を脅かされている。それも自国の軍事政権によって。ある日の午後の電車のなか、わたしのよこに坐った若い男ふたりが、これについて話していた。
男A「(手にした新聞を見ながら)死者7万7738人、行方不明者5万5917人(ともに軍事政権発表)という人的被害を出し、なお数万人の命が危険にさらされているにもかかわらず、国際的な救援、支援、援助をほとんど消極的にしか受け入れていない、軍事政権のこの対応はなんなんだ」。
男B「国民のことはなにも考えていない、見殺しにしているに等しいね」。
A「多くの国の支援の努力を軍政が妨げている、とアメリカの国防長官がいってる」。
B「手をこまねいているだけじゃなくなにかできないの? 軍政のこのやりかたは国家による殺人行為、国家犯罪だよ」。
A「それはいいすぎだと思うけど、いいたくなるよね。国防長官は『われわれはミャンマーの主権を尊重する。それ以外の選択は深刻な過ちだろう』と答えている」。
B「ほかの国々や国際機関が有効な手を打てないんだったら、あとはランボーの出番だね」。
A「ランボー 最後の戦場、か」。

 蛇足でいえば、「ランボー 最後の戦場」はシルベスター・スタローン監督脚本主演の映画、現在上映中で、その舞台はビルマ(ミャンマー)である。若者ふたりの意見は展開がヤヤ荒いとはいえ、憤懣やるかたない、なんとかしたい、口惜しい、というきもちはつたわってきた。

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