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コラム「Circuit 07」青池憲司

第16回 鷹取での2日間(1)
2007.6.3
▲写真1 たかとり教会玄関。正面奥が聖堂
▲写真2 聖堂の頂部
▲写真3 裏から見ると聖堂外観の全貌がわかる
▲写真4 かんちゃん(神田裕神父)
▲写真5 聖堂内部
▲写真6 祭壇(樹齢350年の南木曽の檜)
▲写真7 小聖堂
▲写真8 修復されたキリスト像
▲写真9 中央が堤さん、右が息子さん、左はパオロ神父

 5月26日、新しいカトリックたかとり教会が完成して、その献堂式・竣工式に出席した。約4か月ぶりの被災地KOBEである。かつて、神田裕神父は「地域の住民さんの生活復興なくて、教会の再建なし」といった。わたしもその志にふかく共感していた。教会というよりまちの集会所といった趣(これはいままでもそうだったが)の玄関(写真1)を入っていくと、ほぼ真四角の敷地の正面奥が聖堂(写真2、3)それに連なる三方の向かって右手が司祭館など教会関係の施設、左手と玄関上のスペースがここに集まる諸グループ・団体の部屋である。四方の建物の真ん中はなにもない空間で芝生が植えられている。その中庭がすっきりときょうの青空によくマッチしている。

 中庭に立って周りを見回すと、かんちゃん(神田神父)がシャツにGパン、首に白いタオルをかけたいつものスタイルで、午後2時からはじまる式典の準備をしている。首にタオルは12年間かわっていない(写真4)。お祝いを述べる。握手しながらふたりの口からでたのは「時はくるものだね」ということばだった。震災当時、この日がいつくるのかなど予想だにできなかった。でも、その時はやってきたのだ。時を招来させたのは信者さんと地域の人たちの恊働の力である。かんちゃんが、いや神田神父が案内する大阪大司教区のレオ池長潤大司教と神林神父のうしろについて、わたしも聖堂内を見て歩いた(写真5、6、7)。

 震災で焼けるまえの、漢字で表記した鷹取教会をわたしは何度か訪ねたことがあって、地震で損壊したがつい最近まで使われていた司祭館に泊めてもらったりした。それは1993年の夏のことだった。そのころの聖堂は木造の平屋づくりで、入り口の靴脱ぎ場でスリッパに履き替えて入場した覚えがある。ミサに参列して、若き主任司祭かんちゃんの説教をきいていると、開け放たれた窓から、隣家でパンパンと布団を干す音やむずかる幼児の声などがきこえてきて、まことにのどかな日曜日の朝をすごしたことを記憶している。震災のとき、“ここで火が止まった”とマスコミに喧伝されたキリスト像(写真8)は、そのころはまだ建っていなかった。いや、あったかな? うん、あった、だけど印象に残っていない。

 よく覚えているのは、当時はもう廃園になっていた幼稚園舎の前の蛇口がたくさん付いた園児用の水飲み場である。教会に泊めてもらった次の朝はここで顔を洗った。わたしは、かならず二日酔で、こみあげてくる吐き気とたたかいながらの歯磨きであった。それを見ていた、教会の賄い係の堤さん(写真9)がいったものだ。「うちの神父さんはなんでこんな変な人ばっかり連れてきはるんやろ」。その堤さんとも震災直後の教会で再会した。敷地内の、聖堂と旧幼稚園舎は燃えてしまったが水飲み場は残った。堤さん家族が住んでいた家屋も半壊したが家族は無事だった。堤さんは、ボランティアが大勢集まってくる鷹取救援基地の台所を取り仕切り、わたしは、地域の再生を記録する撮影班の監督としての再会であった。ボランティアも撮影スタッフも水道が復旧してからは水飲み場で顔を洗ったが、わたしの朝は相変わらずの二日酔で、堤さんはヤレヤレとおもわれたことであろう。
(この項つづく)



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