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コラム「Circuit 06」青池憲司

第10回 「仮設」の時代から10余年
2007.3.31
▲1995年秋、「仮設の時代」にあった鷹取のまち

 阪神大震災の復興の一時期を「仮設の時代」と呼んだのは、被災直後から2年ほど鷹取救援基地のボランテイア・リーダーをした和田耕一さんである。全焼全壊半焼半壊の被災地で瓦礫のまちの住民たちは、まず、家族の住む家づくりと、まち(地域環境)の再建を目指した。しかし、何事につけても個人の力には限界があり、行政はかんたんにはうごかず、すべからく侭にならない半端な日々がつづいた。そんな時期(震災3か月後から約2年間)を、和田さんは「仮設の時代」と呼んだのだが、たしかに当時の被災地は住宅にしてもさまざまな施設にしても本設のものはほとんどなく、すべてにちかい多くが仮設建造物であった。あるいは一部損壊状態建築物の仮使用であったといってよい。ちなみに、行政によって建設された被災者用仮設住宅は49681戸を数えた。(仮設住宅への入居は震災直後の2月1日にはじまり、2000年の1月14日までつづいた)。

 「仮設」の時代は、また、「仮説」の時代でもあった。ここで、わたしがいう仮説は、まちづくり協議会の集りや復興対策委員会の会議で飛び交った、参会者のさまざまな意見のことである。意見には希望や願望や欲求がふくまれていた。意見と異見が相対し、そのやりとりは住民のまちづくりへの参加意識を高め、議論の質を鍛えた。仮説のキャッチボール、ことばのボクシングは、住民同士だけでなく、住民と専門家、住民と行政の間でも、活発に行なわれた。区画整理事業を進める集会では住民と行政がたびたび激しくぶつかりあった。神戸市都市計画局が出してくる区画整理案は、行政の、これが本説であるぞ、という上意下達意識がちらつくもので、それにたいして住民は仮説(下意上覆)でもって応酬した。阪神大震災から12年、いまさかんに「参画と協働」がいわれているが、予定調和的にそれがあるのではなく、行政が繰りだしてくる本説に仮説で切り返していく住民のアクションがなければそれはかたちを成さない。

 仮設の場で仮説が飛び交った、阪神大震災被災地のダイナミズムは、人と集団の新しい運動を生みだした。たとえばそれは、非常時の復興まち(地域)づくりに旺盛な活動をし、そこから平時のまちづくりへと活動をシフトしていった「まちづくり協議会」であり、あるいは、それを発展的に解消してつぎの活動に移行していったグループ・団体である。わたしが知っている地域でいえば、野田北部では,「まちづくり協議会」を存続させながら、より多くの住民が参加しやすいまちづくりの場として、「野田北ふるさとネット」を2002年1月に立ち上げた。ネットを構成しているのは、地域住民と地域内のさまざまな団体(現在10団体)で、自治連合会、長寿会、婦人会、NPOたかとりコミュニティセンター、エコタウンサークル、鷹取駅前商店会、小規模作業所ピータンハウス、民生・児童委員、ふれあいのまちづくり協議会、まちづくり協議会が参加している。各団体がゆるやかな連携をとりながら、情報交換や企画運営の調整などを行うプラットホーム的な恊働の場である。作業部会として、企画立案をする「カンガエールサークル」、実際に活動する「ヤッテミールサークル」があり、月1回の定例会を通じて、地域の一体的運営を目指している。また、すべての住民に情報を発信していくために、地域情報誌として「わがまち野田北かわらばん」を毎月1回発行し、全戸配布している。

 このコラムの第6回でも書いたが、わたしは先日、「新宿区榎地区 地域恊働復興模擬訓練」(主催=早稲田大学・新宿区・東京都)の「榎地区の事前復興まちづくりを考える」というワークショップで、『阪神大震災の復興まちづくりに学ぶ』というタイトルで映像とトークの講義をした。そのときのかくれタイトルは「昨日の被災地から明日の被災地へ」だった。その意図するところは、被災地KOBEのきのうの出来事は、SHUTOKENに住むわたしたちの明日の被災地に、合わせ絵的なかたちであらわれてくるだろう、というものだった。そのときは、わたしたちも仮設の場で仮説のキャッチボールをやることになるだろう。いま、センチメンタルにKOBEのあの日を振り返るのではなく、ましてや、もっともらしい教訓を垂れるのでもなく、実践的かつ今日的な課題として、阪神大震災(と、その復興過程)を学び共有していくニーズがさらに高まっているようにおもう。

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