Homeコラム > Circuit 06 -9
コラム「Circuit 06」青池憲司

第9回 俊ちゃん
2006.3.31
桜

 春あさきKOBEから帰京して2週間、わが集合住宅の桜は満開である。ことしは阪神間より東京のほうが開花状況が早いようだ。桜といえば桜花賞、桜花賞といえば阪神競馬場で、競馬といえば俊ちゃんのことがおもいだされる。俊ちゃん(河合俊造さん)は、神戸市長田区野田北部の住人だった。地震のその日は、弟のせっちゃん(おなじみの河合節二・野田北ふるさとネット事務局長)とふたりでずいぶん多くの隣人たちを全壊半壊の家のなかから助けだした。飲まず食わずでつづいた救出作業の一日も夜がきて一段落して、うがいをしようと水をさがしたが、ない、そこでふたりは日本酒を一升瓶からラッパ飲み、いや、酒でガラガラとうがいをしたというエピソードが残っている。

 俊ちゃんは、それからずっと野田北部まちづくり協議会のメンバーとして、また、「まちづくりニュース」の編集員として活動した。「まちづくりニュース」は、震災当初はまちづくり協議会のボランティアをしていた長野大学の学生たちが編集し、そのご早稲田大学建築学科・佐藤研究室の学生たちが引き継いでいたのを、第18号からは住民自身の手で編集することになり(これは画期的なことであった)、俊ちゃんと小野義明さんのふたりがそれを担った。編集のイロハはいうまでもなく、パソコンのパの字にも縁がなかったふたりが、せっちゃんの手も借りながら紙面づくりに悪戦苦闘していた夜々がうかんでくる。そのように、地域の人たちと「復興まちづくり」にいそしんでいた俊ちゃんは、2001年の秋にまだ40歳そこそこで逝ってしまった。癌であった。

 俊ちゃんが愛したものは酒と馬であった。俊ちゃんが愛したものは野田北部にある立ち呑み居酒屋森下と阪神競馬場であった。俊ちゃんが愛したものは黒板づくりの仕事と自分のまちであった。俊ちゃんの葬儀は、かれが愛したまちのかれを愛する人たちであふれた。立ち呑み居酒屋森下にはいまでも俊ちゃんの呑み仲間がいっぱいいて、ふっとかれの話がはじまったりする。常連の岡田さんがいう。「ここが俊ちゃんの定位置でした」。見るとそこはカウンターのいちばん端の、しかも店内の片隅になっているようなひっそりとしたコーナーなのだ。職人肌でシャイでつましく謙虚であった俊ちゃんに似合いの立ち位置である。わたしは、そのいまはだれも立っていない不在の空間にむかって、俊ちゃん、と声をかけてグラスを上げる。俊ちゃん、また桜花賞の季節になったね。

 俊ちゃんが亡くなったのは秋で菊花賞のころなのだが、なぜか、わたしのなかでは、俊ちゃんと桜花賞が結びついている。震災の年の翌年の桜花賞、俊ちゃんに誘われて、せっちゃんやお仲間といっしょに青池組のスタッフが阪神競馬場へ行った。わたしは他用あって参加できなかったのだが、この花見と競馬と酒の阪神競馬場行きは、俊ちゃんたちの震災まえからの恒例行事で、それが復活した春にわたしたちを誘ってくれたのだ。そのことがつよく印象づけられて、わたしのなかで、俊ちゃん=桜花賞という像を結んでいる。ところで、わたしが知るかぎり、植木等の歌の文句どおり「馬で金もうけ」したことのない俊ちゃんがいちどだけ大穴をとったことがある。

 1998年秋の天皇賞、断然一番人気のサイレンススズカが東京競馬場の4コーナーで故障をおこして失速し、オフサイドトラップが優勝するという大波乱があった。この馬券を俊ちゃんは買っていたのだ。この“朗報”は、『多民族社会の風』を撮影中のわたしたちの現場へももたらされた。馬につよい千葉景房キャメラマンはえっと絶句した。騎手の柴田善臣は勝利インタヴューで、「数少ないオフサイドトラップ・ファンのみなさん」とよびかけたそうだが、俊ちゃんがオフサイドトラップのファンであったかどうか、わたしは知らない。わたしが知っているのは、いや、覚えているのは、俊ちゃんがこの大穴馬券で、まちづくり協議会のメンバーや森下の呑み仲間、青池組のスタッフに大盤振舞いをしてくれたことだ。これはいまだに語り草である。あのときの俊ちゃんのうれしそうな顔ってなかった。

 さて、ことしの桜花賞は4月9日、俊ちゃんの予想は?


(c)2003-2020 The Group of Recording Noda Northern District. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system