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コラム「Circuit 06」青池憲司

第21回 お暑うございます
2006.8.10
筆者宅のヴェランダから見た朝陽
▲筆者宅のヴェランダから見た朝陽

 みなさま、お暑うございます。いかがお過ごしでしょうか。
 けさ(10日)も真赤ないかにも熱そうな燃え燃えの太陽が昇ってきました。そんな時間にこれをかいています。そんな時間に起きていることは滅多にないのですが、とはいえこのごろそれが増えてきました。加齢のため? いや、ちがうようです。案ずるところ、それは、前夜の酒の呑みかたと呑む量によるようです。呑みすぎれば床からでるのがつらい、呑みたりなければとんでもない時間に目が覚めて眠れなくなってしまう、そのバランスをさいきんまたうまくとれなくなっています。幾つになっても未熟な酒呑みです。

 さて、野田北部を記録する会Webサイトの編集と管理をしている「きんちゃん」が先月末から北海道へツーリングにでかけたのをいいことに、このコラムをしばし休みました。だからといってどうということもないのですが、なんとなく宿題を終えていない夏休みの気分です。そんなときに、KOBE震災復興活動の友である佐藤滋さん(都市計画家/早大教授)のブログで「愚農は見て抜かぬ」ということばと出会いました。いやまいったね。どうもここのところのわたしの所業をいい当てられたようで心持ちが落着きません。ああ、酒ばかり呑んでいないで何かしなくては、とすぐに反省してしまいます。するとまたすぐに、安易に反省してはいけないなあ、とおもいかえしたりして、ギッタンバッコンのシーソー状態です。

 佐藤さんは、ことしになって自宅の庭で野菜づくりをはじめました。6月の初めにその成果物を食するお招ばれにあずかったりもしました。仕事ではまちづくり、プライヴェートでは庭づくりに勤しんでいるようです。ブログでまちづくりの話題が多いのは当然ですが、たまに、庭づくりにも触れています。その一文を勝手に引用させていただくと、「庭を見始めて、モンスーン気候の別の一面を見る思いだ。台風や集中豪雨もすごいが、放っておくと、庭も畑も庭木も地表もすごいことになる。もちろん原自然はゆっくり輪廻を繰り返しそれなりの秩序を創るのだろうが,人間が住み始めるとそうはいかない。雑草取りや剪定作業、どうしても遠慮がちになってしまう。『愚農は見て抜かぬ』のだそうだ。」とあります。(「佐藤滋の日記 2006/07/25 精農は見ずに抜く」部分)。

 ご覧のように、一文のタイトルは「精農は見ずに抜く」となっています。先夜、佐藤さんと呑んだ折に、「見て抜かぬ愚農は困るが、見ずに抜く精農もまずいよね、第三の道はないの」と尋ねたら、「賢農は見て抜く、です」との答えが返ってきました。なるほど。物事のありようを説いた古人のことばは、はなはだ教訓的です。教訓のほとんどは、押し付けがましく、キメがあたりまえすぎておもしろくないのですが、とはいえ、あたりまえのことばや事柄が時流に向って過激になることもあります。ときに自らの姿勢を映し出す鏡となることもあります。愚農は見て抜かぬ――挑発的でいいですね。佐藤さんの庭ではこんなことばの栽培もしているのでしょうか。


*関連リンク

  • 佐藤滋 WEB SITE - 佐藤滋の日記
    http://satoh.arch.waseda.ac.jp/professor/
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