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コラム「Circuit 06」青池憲司

第19回 A DRINKING LIFE
2006.7.12

 “A DRINKING LIFE”は、ピート・ハミルが1994年に発表した自伝的「物語」のタイトルである。このタイトルが気に入って(気になって)本書を手に取り、内容はもちろん興趣情感ともにゆたかで面白く、一気に読み終えたおぼえがある。邦訳は99年新潮社刊、高見浩・訳『ドリンキング・ライフ』。ハミルの作品からはなれてタイトルにつかわれたことばだけを借用していうのだが、人の一生は、まったく呑まない人はべつとして、多かれ少なかれ、「ア・ドリンキング・ライフ」ではなかろうか。A Drinking Life――が語るなかみは十人十色千差万別である。わたしは時に折にこのことばをつぶやきながら酒場にいる。でも、今夜はわたしではなく、貝原浩のことを語りたい。

▲展覧会のポスター

 貝原浩さん、というとなんだかよそよそしくなるので、貝原、あるいは生前みんなもわたしも呼んでいたように画伯と記したい。画伯が57歳というあまりにも早い死を死んでからもう1年になる。追悼のきもちをこめて、『貝原浩「本の仕事展」』が6月末から7月初めにかけて東中野のパオ・ギャラリーで開かれた。そこには400余点の貝原装幀本が展示されていた。新左翼運動や全共闘運動の流れにつながる著作やブックレットなど社会運動関係のものが圧倒的だが、なかに小説本や看護士試験の想定問題集といったものもあり、本たちは多様であった。装幀家・イラストレーター・デザイナーなどとして活躍した貝原だが、その仕事の全貌を知る人はすくないのではないか、とわたしはおもう。それは、それほど画伯の表現領域が多彩多岐にわたっていたことであり、かれの口から仕事をふくめて自身のあれこれを聞くことはほとんどなか
▲展示された装幀作品の一部
ったことにもよるだろう。わたしはもとより詳らかにしないが、装幀家としての本のカバーはたくさん見ている。イラストレーターとしてのイラストおよび挿絵や戯画も、これは日常的といってよいほど、よく見ている。デザイナーとしては、わたしの映画『阪神大震災 再生の日々を生きる』のチラシをつくってもらった。たまに開いた個展でタブロー絵画を数十点見ている。わたしと画伯のつきあいはこのようなものだが、それらにもましてふたりの間を繋ぐつよい触媒となったのは酒である。

 神田神保町に「萱」という酒場があって、わたしの通店歴は四半世紀超になるのだが、貝原とはよくそこで顔を合わせた。わたしがとくに足繁くその店に通った時期があって、当時、かれはいつもおそくにあらわれた。東中野の仕事場からか本郷あたりで打合わせをすませたあとか、夜の10時をすぎて酒場の雰囲気も弛緩してきたころ画伯が登場すると場の空気が一鮮される気配があった。酔客たちにそうおもわせたのは、あのやんちゃな少年っぽい笑顔(いつもヤヤ疲れ気味だったにせよ)と、あの大きなドンガラ(肉体)にあったにちがいない。画伯の大きなドンガラはすこしも威圧的ではなかった。もう20年も昔になるか、知り合って間もないころ、かれはめずらしく自分を語って「芸大相撲部出身です」といった。わたしはそれを酒場での会話をにぎわす過剰な冗談と取ったのだが、どっこいそれはそうではなかった。大きな肉体の持ち主貝原はシャイで生真面目で柔らかい諧謔心のある画伯だと知った。

▲酒場「萱」酔客群像図
(テレホンカード)

 酒場「萱」に1枚の群像図がある。制作は、わたしのおぼろな記憶で90年代の初めのころか。画伯が酔余の折に、しかし酔眼でなく真眼で描いた常連客個々の酔顔表情を1枚の和紙に集成したもので、墨痕鮮やかな筆絵である。登場する顔たちは女将の榮枝さんをはじめ男女41人衆。わたしも画伯自身もそのなかにいる。人物のうちにはすでに貝原とおなじ彼岸に身を移された方もいるし、此岸にあってもいまはすっかりa drinking life of KAYAから遠ざかった人もいる。かくいうわたしも、萱には年数回しか行かないだらしない客になってしまった。群像図のなかの顔たちは歳を取らないが、絵のそとの肉体と精神はそれ相応にみんな齢をくわえてきた。画伯とさいごに酒を呑んだのはいつだったか。いや、酒を呑もうとしたのはいつだったか。2001年の師走も押し詰まったころと記憶している。先述の映画のチラシの打合せをかれの事務所で終えたあと酒を誘ったら、「きょうは休肝日」と意外な返事であった。貝原さんの辞書にもそんなことばがあるの? と返したが、もてなし心の貝原としては、ビールも呑める喫茶店にわたしを誘い自身はコーヒーを飲んだ。思えば・・・そのときすでに・・・画伯は自分の身体の異状を察知して・・・などと思いをめぐらせても詮方ない。画伯とわたしのa drinking lifeはそこで宙吊りされたまま終った。

 群像図の原画からつくったテレホンカードがあって、それを見ているだけでも、貝原は「人群れ」の画家だなという思いがどんどんつよくなる。画伯は人が好きだった。人びとが好きだった。人の群れが好きだった。人の群れのなかにいることを好み、作品は多く群れのなかから生まれた。晩年というにはあまりにも早すぎる晩年、画伯は「出会ったすべての人びとを描きたい」と和紙をつかった筆絵に意欲を燃やしていたという。その死は幾重にも無念である。

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