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コラム「Circuit 06」青池憲司

第18回 大久保/梅田/神戸
2006.7.2
新宿おおくぼまちづくりの会主催[わたしたちの命と地域を大地震から守るために!〜いま、阪神大震災に学ぶ〜]
▲大久保での上映会には多彩な参加者が集った

 6月22日。NPO新宿おおくぼまちづくりの会主催の「わたしたちの命と地域を大地震から守るために!〜いま、阪神大震災に学ぶ〜」という集会で、記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』第14部証言篇を上映し、わたしもかんたんな話をした。50人をヤヤ上回る参会者に、映画は相当の関心と緊張をもって観られた。列島各地で「住民主体の地域(まち)づくり」がすすめられている現今、その理念的かつ方法的原型のひとつが、阪神大震災被災地の復興まちづくりである。阪神大震災直後から現在まで、捲まず撓まずつづいている住民のまち(地域)づくりから学ぶことは数多くある。いみじくもそのことの証左となった上映会であった。
 
 集会ののち、会場近くの居酒屋で懇親会が開かれた。主催者のNPO新宿おおくぼまちづくりの会は、新宿区戸山地区の住民さんが中心となって立ち上げたまちづくり団体で、地域環境の活力化、外国人定住者との協同、住民の安全と防災などの課題に取り組んでいる。懇親の席では、住民、建築家、都市計画家、まちづくりプランナー、学生など多彩な面々が酒卓をかこみ、話が弾んだ。これは、野田北部的まちづくりの布陣である。新宿おおくぼまちづくりの会の花房会長の卓では、早大建築学科教授の佐藤滋さんやプランナーの濱田甚三郎さん、司馬寛さん、この地域の住民で建築士の江原幸壱さんらが、大久保・早稲田・神楽坂など隣接する地域を繋いでの、「事前復興防災訓練」をしようと謀議している。謀議は酒中にあり。これも野田北部的まちづくりの教えである。

 24日。大阪へ。梅田の沖縄料理屋で、横山雅子さん、ソドマーと呑む。横山さんとは以前いっしょに、外国籍女性を対象にした「母子保健」のヴィデオ作品をつくった。彼女はその作品の企画者であり、作品発注元の代表であり、つまりはクライアントであった。そのご、定住外国人を支援する団体で働き、いまは、老人介護施設で訪問介護の仕事をしている。つねにactiveな女性である。ソドマーはモンゴルからの留学生で大阪外国語大学に学んでいる(本コラム第14回を参照あれ)。留学期限が9月末までとなって、試験やレポート提出に追われているようで、モンゴル風のんびり屋の彼女がまるで日本人のように忙しい忙しいとあせりまくっていた。ソドマーは、明日(25日)箕面市で開かれる「多民族フェスティバル」に出場して『花』をデュエットでうたうという。そこからしばし、沖縄と日本とモンゴルの歌、三線と琵琶と馬頭琴、泡盛と焼酎と馬乳酒という三題噺風に話は弾んでいった。

 25日。神戸。「関西ブラジル人コミュニティ」(CBK)が主催する「フェスタジュニナ」にでかける。フェスタジュニナ(6月祭)は、毎年6月の第4日曜日に行なわれるブラジルの収穫祭である。日本でも各地のブラジル人コミュニティで開かれ、神戸には関西在住のブラジル人やペルー人などラティーノたちと、彼らの活動を支援する日本人が大勢集った。わたしも大阪での用事をすませ、前夜鷹取へ入り野田北ゲストハウスに泊り、サンパツやハヤシで散髪したのち、この集りにでかけた。顔見知りが何人かいてすぐにカンビ片手の談笑となる。ビールは日本のものだったが、あれやこれやの料理はブラジルのもので、名前はすっかり忘れたが、その味はしっかり覚えている。ブラジルといえば踊り、踊りはサンバとするのはあまりに単純だが、やはりお国柄、歌舞と音曲は止むことがなかった。

 主催団体の自己紹介に、「『関西ブラジル人コミュニティ』は2001年2月、ブラジル人が日本社会で暮らしやすくするため、また日本社会がブラジル人を理解できるようにするために設立されました。日本社会で活躍し生活をしていくためには、日本の習慣や規則などを学び、それぞれが自分たちの権利を知り、情報を持っていなければなりません。そして、日本社会の、地域の一員として、私たちが生活しているこの場所で起きていることに関心を持っていきたいと思っています」とある。代表は日系ブラジル人2世の松原マリアさん。CBKの活動は、その源をたどれば、たかとりコミュニティセンターのFMわぃわぃやワールドキッズコミュニティの番組づくりからはじまったといってよい。多言語放送のポルトガル語パーソナリティとして参加したマリアさんが、日本人スタッフや同国人たちと起こした小さなうごきがすこしずつ大きくなって今日がある。

 会場になったのは、「旧神戸移住センター」とよばれる建物の1階フロアで、この建物は、1928年(昭和3)に「国立神戸移民収容所」として開設されたものである。南米や北米への移住者たちが出発前に日本でさいごの日々を過ごしたのがこの建物であった。ここで彼らは、7日から10日間滞在し、健康診断や予防接種を受け、ポルトガル語の学習や現地の生活習慣などの講話を聞いた。アジア・太平洋戦争中に一時別途使用されたが、1952年(昭和27)に戦後の移住事業がはじまると、「海外移住斡旋所」として業務を再開した。1964年(昭和39)「神戸移住センター」と改称したが、移住者の減少により1971年(昭和46)閉鎖された。その間、日本から海外への100万人を超えるといわれる移住者のうち約25万人が神戸港から旅立っていった。この建物から鯉川筋をまっすぐ下っていくと、徒歩約20分、いまの元町駅をこえてメリケン波止場がある。当時の記述に「出港の日、大きな荷物を担ぎ、履きなれない靴に足を噛まれながら、赤土の急な坂道を徒歩で下り、埠頭の移民船へ向かった」とある。神戸は日本の海外移住基地でもあったのだ。

 旧神戸移住センターは、諏訪山という六甲山系山麓の高台にあり、その役割を終えたのちもさまざまな施設としてつかわれ、阪神大震災にもよく耐え、一時期、地震で被害を受けた神戸海洋気象台の仮庁舎となった。そのご取り壊しの話がでたが世界各国の日系人から、海外移住を物語る歴史的建造物として保存整備してもらいたいとの要望があり、保存がきまった。いまはその1階に「移住資料室」があり、海外移住関連写真とヴィデオ映像、第1回ブラジル移民船「笠戸丸」の復元画、当時の家具や生活用品などが展示されている。とくに、移民1世から2世3世へと写し継がれた「家族の肖像」というべき写真には圧倒された。「関西ブラジル人コミュニティ」の事務所はおなじ建物の4階にある。いまは「旧神戸移住センター」とよばれているこの建物を、08年のブラジル移民100周年を機に国立の「海外日系人会館(仮称)」にしようとする計画がすすんでいる。

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