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コラム-わが忘れなば

第7回 こんな夜もある
2005.4.28

 過日の夜のことである。わが友、大久保の探偵こと便利屋稼業のヤクモと酒を呑んで、高田馬場から地下鉄東西線に乗った。歓楽街からの帰宅コースのひとつである。23時をすこし廻った時刻だった。進行方向まえから3輌目の車輛に乗った。いつもはうしろから3輌目の車輛。大久保からではなく早稲田通り方向からのかえりなのでこの車輛になった。座る。この駅ではまだ充分に空席がある。手提げ袋から本を取り出して頁を開く。わたしは、もとより酔眼である。

 早稲田、神楽坂、飯田橋と駅を過ぎる間、辻原登の短篇集『枯葉の中の青い炎』(新潮社刊)を読んでいく。いまは、集中の一篇「日付のある物語」にかかっている。乱暴にまとめてしまうと、1979年1月に大阪で起きた三菱銀行猟銃強盗・人質事件の梅川昭美を主役にして、連合赤軍、阪神大震災を絡めた話だ。この作家のものは多く読んでいるが、『ジャスミン』(文藝春秋社刊)がとくに気に入っている。神戸と上海、そして阪神大震災。さいきん、わたしの目はKOBEと中国の交流に向いている。黄河の水は新湊川とまじわる。

 九段下、竹橋を過ぎて大手町で乗客がどっと乗り込んできた。少なからぬ人数が酔っぱらいである。座席のわたしの前にかなり酔いがまわった会社員男が3人立った。うち2人が吊革にぶら下がり、しなだれかからんばかりに、わたしの頭上を覆う。もう1人は吊革に掴まろうとせずに、車輛の揺れといっしょに揺れている。かれらは、大声で、同僚の仕事振りについての悪口を撒き散らしはじめた。車内の空気が濁ってきた。濁声といっしょに反吐が降ってきそうで思わず首を振り躰を捻った。

 日本橋、茅場町、門前仲町と身を捻りつつ辻原本を読みつづけたが、木場で、わたしの酔眼が活字を追えなくなって「日付のある物語」を閉じた。本を閉じ眼をつむり、しかし、耳をふさぐことはできない状態でしばらくうとうとした。東陽町、南砂町を過ぎると地下鉄は地上に出て荒川鉄橋を渡る。電車が鉄橋にかかる走行音で、わたしの意識が車内にかえってきた。電車が鉄橋を渡るときの音がすきだ。覚めきってはいない眼と耳にさいぜんの三酔漢の酔態と濁声がもどってきた。

 車内の混みようは変っていない、雰囲気の澱みが増している。三酔漢はまるでヘドロのようだ。電車が西葛西を過ぎ、葛西駅に入る手前でレールが大きくカーブしていて、車輛は激しく揺れる。そこに到るまえに車掌のアテンション・プリーズのアナウンスがある。「この先、揺れますからご注意ください」。電車がカーブのポイントを通過して大きく揺れた。三酔漢のひとりの躰がだらしなく周りの何人かを薙ぐように泳ぎ、中年男性のところに倒れこんでいった。中年男性は不意打ちを食らって尻もちをつきかけたが、隣の若い女性が支えた。

 若い女性は、自堕落酔漢の躰を撥ね退け、中年男を助け起こすと、自分の体勢を整え、酔漢に向っていい放った。「ちゃんと自分の足で立ちなさいよ。さっきから、あんたのためにみんなが迷惑してるじゃないの。自分の躰くらい自分で支えられないのか。しんぼう付いてるんだろ」。しんぼう、と聞えた。心棒? 車内は一瞬サイレントに。電車は葛西駅についた。若い女性は何事もなかったように降りていった。電車が発車してプラットホームを出外れるとまたポイントがある。三酔漢は吊革にぶら下がってフリーズしていた。


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