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コラム

第4回 若者たちの、天津・唐山
2005.3.16

 昨年8月に「日中交流・復興クルーズ2004」に参加して、20世紀最大の地震被災地、唐山・天津を訪ねたときに撮影したminiDV映像を、旅日記『復興海游見聞録』(75分)としてまとめました。このクルーズは、3歳の幼児から60代の高齢者まで、小学生、中学生、高校生、大学生〜おとな、まさに老若男女30人のご一行様でした。どちらさまも中国異文化体験とともに異世代間の異文化体験も堪能されたようです。とくに小中学生は、家族や学校という単位と異なる集団での行動は初めてで、不安と興味と緊張が交錯する旅だったようです。

 旅は、ツアー・タイトルが示すように、阪神大震災の被災地と、1976年7月28日に起きた唐山地震の被災地を結んで、その復興の伝え合いをすることが主たる目的でした。と同時に、日本の若者と中国の若者の身近な交流を図ることにも力が注がれました。わたしと一之瀬正史キャメラマンが見た若者たちは、毎日が未知との遭遇で、ときに自らの無知との遭遇もあり、しかし、おおらかに中国人若者とのコミュニケーションをたのしんでいました。地震を媒介とした交流集会はもちろんですが、それ以上に、若者たちは同世代同士の身辺風俗趣味嗜好の話題で盛りあがっていました。

 天津の第二南開中学(周恩来さんの出身校と聞く)は、中高一貫教育のエリート校で、市内の50以上の小学校から選抜された生徒が学び、成績が落ちると除籍される聞き、きびしいなあ、と日本の若者たち。おなじ天津の旅游専門学校では、毎年日本へ100人以上の学生を研修に送り出しています。学生たちが見事に身に付けた、日本語によるロールプレーにびっくり。勉強嫌いで、中学を不登校で過ごしたサトシが、「中国には不登校はありませんか?」と切り込んだが、この質問は残念ながら成立せず、ディスコミュニケーションに終りました。

 若者たちを大いに悩ませた問題は、中国の現実と歴史にどう向き合えばよいかということでした。先にもかいたように、このクルーズの主題は「震災を体験した人びとの心をつなぎ、豊かな出会いを生み出す」ことにあり、そのことはかなり高い達成度があったのですが、阪神大震災被災地からの一行は、天津・唐山の地でさまざまな現実とぶつかり、その奥にある歴史と対面せざるをえなくなりました。若者たちにとって、中国の歴史、とくに、日本と中国の近現代史は殆ど知らないに等しく(それは必ずしも彼らだけの責任ではないが)、おとなたちは、急遽、移動中のバスのなかで「日中近現代史講座」を開いたりしました。旅をして、その国の現実や歴史と向き合わずに通りすぎるとしたら、そんな無様な旅はないわけで、復興クルーズは「日中交流」を貫徹したといえます。

 若者たちがぶつかった現実のひとつに、中国社会の貧富の差があります。天津郊外の王村という、ダチョウの飼育農業で財を成した農村の農民は、高級住宅に住み高級車を乗り回しています。それはOn The Sunnyside Of The Street(明るい表通り)で、開放政策はそこに止まってしまって、閉ざされたような裏通りには、崩れかけたレンガ造りの住宅に住まう人びとがいる中国を見てしまった若者たちは、他人ごとではなく、センチメンタルな同情心でもなく、この現実に混乱し葛藤していました。その思いは、クルーズに天津から合流した蘇旭輝さん(上海師範大学の学生)もおなじだったようすで、雲南省出身の蘇さんは、自分の故郷の農民の暮しと王村農民のそれとの落差を、日本の若者たちにあつく語っていました。


<関係リンク>
  • 2004.9.1-コラム「眼の記憶」第21回:我的天津唐山紀行断片
  • 日中交流・復興クルーズ2004

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