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コラム-わが忘れなば

第17回 ホーチミン・シティ―バンコク―鷹取(7)
2005.9.12

 (このコラムでは、わたしはまだホーチミン・シティにいて、当分日本に帰りつけそうにないが、その間に衆議院解散→総選挙があった。わたしはアンチ自民党かつ反小泉なので、きのうの結果はじつに不本意なのだが、野党が大きく勝つことも予想していなかった。自民現状、民主ヤヤ伸び、公明・共産かわらず、社民減、刺客候補者選挙区大敗と読んでいたのだが、あれま、である。しかし、まあ、憲法問題にしろ外交問題にしろ景気の問題にしろ、わたしたちの生活と政治のかかわりは、選挙後のこれからが正念場だ。いたずらに悲憤慷慨しないでじっくりといこう。というわけで、わたしのコラムはふたたびホーチミン・シティへ)。

■ ■

 レ・ズアン通りをいくと左手にアメリカ領事館がある。ヴェトナム戦争時代の大使館である。1968年1月31日(テト=旧正月)の未明、北ヴェトナム軍と南ヴェトナム解放民族戦線は5000人の兵力をもってサイゴン(現ホーチミン・シティ)へ進攻した。それはテト攻勢と呼ばれ、南ヴェトナム政府を、アメリカ政府と合衆国国民を震撼させ、世界の反戦意識をさらに喚起させた戦闘であった。このとき、最大攻撃目標とされたアメリカ大使館には、ひそかにサイゴン市内に送りこまれていた蜂起部隊13人が突入した。それは決死隊であり、合流するはずだった本隊はサイゴン川を渡ることができず、市内中心部への進入を阻止され、13人の突撃隊は討死した。生存者一人。大使館での銃撃戦が終わった直後に敷地内を視察し、死んだ解放戦線兵士一人ひとりを見てまわるバンカー大使を撮影したフィルムがある。アメリカ軍撮影班のカメラマンが撮ったものだ。大使の表情はフリーズしてしまっていて、何を見ても表情はうごかない、変化しない。まるで、目鼻口が付いているだけで感情のない木偶のようである。わたしがこの映像を見たのは後年のことだが、バンカー大使のその表情は、非情酷薄でタフな政治家のようにも、なすすべもなく判断停止した醜いヤンキーのようにも見える。あるいはまた、大使の表情からは、南ヴェトナム軍とアメリカ軍がもはや勝利や栄光から見放されてしまった、楽園を追放された存在であるもののうつろさが見える。大儀はわれらになし、である。それから多くのときがながれ、ヴェトナム社会主義共和国とアメリカ合衆国は国交を回復し、現在の領事館は敷地も建物も当時の大使館とまったく変わらない。そこを過ぎて、「ホーチミン作戦博物館」へ向った。

▲北ヴェトナム軍の従軍キャメラマンと映写機
Photo:青池憲司 >>拡大

 「ホーチミン作戦博物館」はレ・ズアン通りが植物園に突き当たるてまえの左側にある。このまちには戦争をつたえるミュージアムがいくつかあるが、この博物館はホー・チ・ミン主席が指導した革命と戦争のうち、「ヴェトナム戦争(救国反米戦争)」の軍事的側面がよく理解できる仕組みになっている。とくに、当時、小よく大を制す、と讃嘆された「ホーチミン作戦」が、いかに具体的に実践されたかを、写真、戦闘想定図、実物、模型、ジオラマなどをつかって紹介している。アメリカが最新兵器で空爆をするなか、自転車とリヤカーに物資を満載してホーチミン・ルートをいく輸送隊の、その自転車やリヤカーや物資が実物で展示されている。ヴェトナム反戦世代をふかくうなずかせるものがここにある。なるほど、ヴェトナム戦争とはこのように闘われたのか、と納得させる一端がここにはある。一方で、北の正規軍と解放戦線兵士がつかった武器の数々も館の内外に展示されている。ミサイルや戦闘機、高射砲、ロケットランチャー、機雷、砲弾、機関銃、ライフルなどなど。そして、将官から兵士にいたるまでの軍服の陳列。軍帽、背嚢、水筒、ホーチミン・サンダルなどのこまごまとしたもの。展示のディテールをおろそかにしていない。

 兵士の服装・装備品を見ていて、思いが一瞬1980年のタイ・カンボジア国境へ跳んだ。当時、国境のタイ側にはカンボジア人の難民キャンプが多数できていた。カンボジア人だけではなく、カンボジアを横断してタイへ逃れでたヴェトナム人難民もすくなからずいた。あるとき、その難民キャンプを解放するという名分で、カンボジア(ヘンサムリン政権)軍が越境攻撃をかけてきた。ヘンサムリンの軍隊は実質的にはヴェトナム軍だった。タイ軍が応戦し戦闘は1日で終わったが、双方に戦死者をだし、キャンプの難民にも死者と負傷者があった。死者のひとりは、休耕期で水を落とした水田にうつ伏せになり横たわっていた。その顔は若くまだ20代のほんのはじまり。鉄兜をかぶり鉄砲をもつより、菅笠と鋤鍬が似つかわしい四肢姿態である。かたわらに、生きていたときのかれが背負っていたリュックサックがあり、なかみが取り出されていた。質素な下着が数枚、歯ブラシ、歯磨き粉、つかいふるされたタオル、角がまるくなった手帳、水筒、わたしたちがビーチサンダルと呼ぶゴム草履(ホーチミン・サンダルにあらず)など。それらは、戦闘要具というより生活必需品といったほうがよい。手帳から写真がのぞいていたので目を近づけると、少女の顔写真であった。恋人だろうか。証明写真ほどのサイズのモノクロ写真で、少女はカメラに正対し、眼差しはまっすぐ若者をみつめている。死んだ若者兵士と写真少女。水田の広がりと緋に染まった夕空、遠い木立の蝉の声。死者はどう撮ればよいのか。突然の死体に遭遇して、わたしと星野欣一キャメラマンはしばし途方にくれていた。

ベンタイン市場
▲北ヴェトナム軍の従軍キャメラマン
Photo:青池憲司 >>拡大

 ホーチミン作戦博物館の兵器と兵服の展示物の多さにはおどろいたが、わたしがいちばん興味をもったものが2階のフロアにあった。それは、ヴェトナム戦争を映画フィルムに記録した、北ヴェトナムと解放戦線のキャメラマン部隊や上映班の活動をつたえる展示で、当時、かれらが使用していたキャメラや映写機の実物がそこにあった。キャメラは35ミリのアイモもあったが、多くは16ミリの「フィルモDR」や「ボレックス」で、それらはゼンマイ式の機種で、1回バネを捲いてスイッチを入れると、途中で切らなければ30秒から36秒くらいのあいだフィルムを回しつづける。だが、ワンカットをどんなに長回ししたくてもそれ以上は回せない。しかも、「フィルモDR」や「ボレックス」は100フィート巻の16ミリ・フィルムしか装填できない。100フィートは時間にして約3分である。目のまえの事象はたえまなくはげしくうごいている。目前に展開する状況をどの時点、いかなる次元で写し撮るか。その現実をどのように3分間のフィルムに収めるか。キャメラマンには持続的な緊張と瞬発的な感性が要求される。乾坤一擲である。かれらは、いわば、キャメラをもった映像の狙撃兵であった。そのようにして撮影されたフィルムはハノイで現像・編集され、祖国解放の闘いの記録として、北ヴェトナムと南の解放区で上映された。独自に組織された上映班が巡回上映して歩いたのである。(つづく)

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