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コラム-わが忘れなば

第13回 ホーチミン・シティ―バンコク―鷹取(4)
2005.6.30

マジェスティック・ホテル
▲マジェスティック・ホテル Photo:青池憲司
 サイゴン川に面して建つマジェスティック・ホテル。ここに投宿した。週刊朝日の臨時特派員としてヴェトナム戦争を取材した開高健とカメラマンの秋元啓一が、1964年晩秋から65年早春にかけて約百日間滞在したホテルである。ふたりの部屋は103号室で、フロアの数えかたがフランス式だから103号室は2階になる。ミーハーよろしくこの部屋のまえに立つと、ドアの横に1枚のプレートが掲げられていて、ここに日本の文豪開高健が宿泊しヴェトナム戦争を取材した云々、の日本語が刻まれていた。いや、文豪とはかかれてなかったが、なんかそんな雰囲気をただよわせた銘板であった。この手のモノはいずこのいずれであれ、そんな匂いを放っている。イスタンブールのホテル・ペラ・パラスではアガサ・クリスティのそれを見た。わたしは泊ったことはないが、バンコクのオリエンタル・ホテルには三島由紀夫のそれがある、ときく。三島はここで、『豊饒の海』四部作のうちの第三部『暁の寺』(68年連載開始)をかいた。バンコクが主たる舞台で、ワット・アルンが象徴的につかわれている。ワット・アルンは暁の寺という意味である。

 その三島が、開高の小説『輝ける闇』(68年書下ろし)について、発表直後に、「すべてを想像力で描いたのなら偉いが、現地に行って取材してから書くのでは、たいしたことではない」という意味のことを語ったという(新潮文庫版『輝ける闇』の秋山駿解説)。これは、もしかしたら、65年に開高が発表したヴェトナム・モチーフのエッセイ『混沌の魔力』(「新潮」65年5月号)のなかで、次の文章に対する意趣返しかもしれない。ちょっと長いが引用する。「三島由紀夫さん。あなたは平和がきらいで血と混沌が大好きなのだから、一度あの国へいって従軍してきたらどうですか。本気でおすすめするのだ。たぐいない経験の蜜が得られるよ。戦争の時代史としてはヴェトコンは近代の権化、純粋結晶なのだ。はだしにパンツ一枚、山嶽民族のゲリラ隊ときたらフンドシ一本で火は木をこすって起す。けれど彼らは近代の権化であり、不惜身命、TNTもナパームも化学液もロケット弾もクレイモア電気地雷もかなわないのだ。こういうことも三島さんの大好きなイメージじゃないかしら。ボディビルなんかやめて鉄兜かぶりなさいよ。あれは顔の長い人にピタリなんだ。私はホラは吹くけれどウソはきらいなたちです。本気であなたにヴェトナム国を御推薦する」。あと178字つづくがそれは略す。ヴェトナム戦争を彼岸にして、“平和ボケ国家ニッポン”にいらだつ三島へのマゴコロこめた挑発、おちょくり、いや、地獄めぐりの招待状である。
 
 夜の帳の降りたサイゴン川をまじかに見ようとホテルをでる。川はすぐ目と鼻の先である。サイゴン川の河岸はちょっとした小公園の体をなしていて、こぢんまりとした庶民の憩いの場であり、家族総出の夕涼みの場であり、若い男女の愛のかたらいの場でもある。川風が快い。古風であり古典的である。ずんずんと歩いて川っぷちまでいく。川面が青黄土の色でうねっているのが見える。眼が感じる質感は、水の層がインドシナ半島の土に練りに練られて沃々しく、どろり、ねっとりしている。のぞきこんでいるとそのとろみがたちのぼってくるようだ。アジアの川だ。そんなわたしの傍に少年がひとり近寄ってきた。見た目、日本の小学5、6年生くらいだが、ヴェトナム人のこどもは年少に見えるから中学生かもしれない。絵葉書の束を見せながら、日本語で1ドル1ドルという。わたしが日本人であることは見ぬかれている。絵葉書は買わなかったが、利発そうな目とこざっぱりした身繕いの少年はしつこく迫ることもなく、こちらが拍子抜けするくらいあっさりと商売をあきらめ、わたしとならんで川面に目をうつした。しばらくそうしていたが、川面には、かれの興味を惹くものは何もなかったとみえて、バイバイといって立ち去った。

 ホーチミン・シティのストリートや外国人観光客の集る場所で、物売りの少年を見たのはこのときと、動植物園まえでの2回だけである。やはり絵葉書売りであるその少年は、うろうろしているわたしたちの道案内をしてくれて、それがすむと、手にしたモノをひらひらさせながら、かえりに買ってね、といって仕事場へもどっていった。なんと商売気のないやつか。あかんではないか。かつての東南アジアの典型的な光景であったこどもの物乞いとストリートでの労働は、このまちでも過去のものになったようだ。ほんの数日間の滞在で断言はできないが、そうだとすれば、それはこの国の健康さをしめす一つのあらわれであるといってもいいだろう。歴史の古今、洋の東西を問わず遍在する、社会の諸悪のツケがこどもにおしつけられていく、という最悪のパターンから、この国は脱したのだろう。これぞ、ドイモイ(刷新)ではないか。うれしいことである。(つづく)

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