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コラム-わが忘れなば

第12回 ホーチミン・シティ―バンコク―鷹取(3)
2005.6.22

 タンソンニュット空港からホーチミン・シティ市内まで、タクシーは、ホンダ、スズキ、カワサキと、並行し、ときに抜きつ抜かれつしながら走っていく。ホンダ、スズキ、カワサキなどを総称して、ホンダがヴェトナムにおけるオートバイの代名詞となっている。そんな光景を車窓から見ていると、道路というよりホンダという川の流れのなかをモーターボートでいくような気分になってくる。ホンダの乗り手は多彩で、アオザイの若い女性、パジャマのようなツーピース姿の若中年の女性、いずれもサングラス、顔の全面を被うほどのカラフルなマスク、二の腕までを隠す長手袋を着用している。被り物は野球帽が多く、三角のヴェトナム笠もある。これらはホンダ乗りの必需品で、陽除け、排気ガス除け、埃除けである、危険除けのヘルメット姿はあまり見られない。

 はじめていく国のはじめて降り立つまちの第一印象は、空港から市内に入るタクシー運転手の態度、あるいは、公共交通の使い勝手でほぼ決まる、といってもよい。その伝でいけば、わたしたちが乗ったタクシーの若い運ちゃんは、口数すくなく(もっとも、ヴェトナム語はもちろんのこと英語でまくしたてられても、こっちは困ってしまうが)、運転マナーはまわりのホンダに影響されることもなく、一定のリズムでハンドルとアクセルとブレーキを操作している。物腰はなかなかジェントルだ。したがって、ホーチミン・シティの第一印象はよい。……はずだったのだが。

 タクシーは、グエン・バン・チョイ通りを走り市内中心部に入ると、ナム・キー・コイ・ギア通りを直進し、統一会堂(旧サイゴン政権の大統領官邸)を右に見てその正面を左折し、サイゴン大教会の広場を右折してサイゴン河岸へと下っていく。街路樹が瑞々しいこの並木道がドン・コイ通りだ。歩く人の生気をよみがえらせてくれる街路樹が空高く青々と繁るドン・コイ通りは日本語にすれば蜂起通りとなる。ヴェトナム戦争終結後に付けられた名称である。ヴェトナム戦争真只中のころはチュ・ドー(自由)通りと呼ばれていた。命名者は旧サイゴン政権である。そもそもはカティナ通りが市民に親しまれた名前であったときく。南ヴェトナムを解放した北の政府と解放民族戦線はなぜその名にもどさなかったのだろうか、という思いがわたしの胸をよぎる。その思いの基にはサイゴン市がホーチミン市と改名されたことの違和感が、わたしの胸の底にある。

 時の権力者の政治的恣意や力の誇示として地名や町名を変えるのはめずらしいことではない。かつての日本帝国主義は偏執狂的にそれをやったし、権力を奪った者が当然のごとくにそれをする愚行はいたるところで行われている。思想と主義主張を問わず人間の業のごときものであろうか。とはいっても、わたしは、帝国主義者のそれと、ヴェトナム社会主義共和国のそれとを同一視するものでは、もちろんないが、それでもやはり、サイゴンをホーチミンと改名すべきではなかった、と惜しむ。これは、統治者の発想であって、解放者の想像力ではなかった、とわたしは惜しむ。革命の側も反革命の側と同質の政治的愚行・文化的蛮行から免れることができなかった、ことを惜しむ。この改名は、ホーおじさん(バグ・ホー)、と南ヴェトナムの民衆からも親しまれた、北の国家主席の本意ではなかった、とわたしはおもう。

 ホーおじさんは、1996年9月2日にヴェトナム戦争(救国抗米戦争)の終結をみずに、だが、勝利を確信して他界したはずである。しかし、死後、自分の名前がサイゴンに取って代わって、歴史的な都市に冠せられるとは夢想もしなかったであろう。これは、ひとえに、バグ・ホーを偶像化しようとする北の政府と軍の一部要人の仕業にちがいない、とわたしは推測する。偶像化は社会変革運動において形骸化の一里塚である。いずれにしても、この改名で、南の民衆は、自分たちが北の権力に占領されたと感じたであろうことは容易に想像できる。96年にホーおじさんは、「自由と独立ほど尊いものはない」とアピールしたが、改名行為はこの宣言からなんと隔たっていることか。南のヴェトナム共和国消滅後の社会建設は、北と南の水平の協働ではなく垂直の力関係になってしまった。このつまずきが、1975年5月1日以降のヴェトナム社会主義の困難と混乱に拍車をかけ、多数の国外脱出者をうみだしてしまったのではないか。

 ボートピープルとして日本へやってきた、鷹取の在日ヴェトナム人一世たちは、民族のお祝いごとのあるとき、いまでも旧サイゴン政権時代のヴェトナム共和国の旗を掲げる。そんなとき、かれらといっしょの酒席にいるわたしは心中おだやかではない。かれらは、いまでも、かつての北の政府や南ヴェトナム解放民族戦線に、否定的な、激しい嫌悪の感情を抱いていて、かつて、ヴェトナム反戦運動の渦のひとりであったわたしとしては尻の坐りがわるい。酒を酌み交わしながら眼を彼方に向けると、旧ヴェトナム共和国の旗の下に群れている3世の若者たちは、ヴェトナム社会主義共和国の赤地に大きな黄色い星の旗をプリントしたTシャツを着ていた。

 ところで、先に、ホーチミン・シティの第一印象はよい。……はずだったのだが。とかいたことの顛末である。わたしたちの乗ったタクシーがサイゴン河岸沿いのホテルに着いて、代金の6万ドンを、空港の両替所で両替したヴェトナム紙幣の10万ドン札で払った。お釣りを、といって運転手はいったん車内にもどったが、すぐにでてくると、釣り銭がないのでホテルで両替してくれ、という。ホテルのキャッシャーで両替を頼むと、紙幣に触ったとたんに、これは贋札だ両替できないという。仕方がないのでべつの10万ドン札で両替してもらう。とって返して運転手にその旨を告げると、かれは、わたしは知らない、という。あとになって冷静に考えれば、この10万ドン札は両替所かタクシーの運転手の財布のどちらかからでてきたものである。前者であることはまずありえないから、運転手が車内にもどったときすりかえたにちがいない、となるのだが、そのときはそれ以上追求しないで、1万ドン札6枚をわたした。状況からみて、贋10万ドン札の出所は運転手とみてまずまちがいないだろう。ホーチミン・シティ滞在中に、博物館や美術館、フォー(ヴェトナムうどん)屋やレストランなどで、試しにこの札を出してみたが、いずこでも、こんなコピーの札は使えないよ、とあっさり断られただけで大騒ぎはおこらなかった。不慣れな外国人だけにしか通用しない、自国民にはだれにも相手にされない贋札ともいえない贋札がたくさん出まわっているのだろうか。あるいは、日常茶飯事めいた悪戯ででもあるのだろうか。ちなみに、10万ドンは日本円で約800円である。いきなりこんな目にあったからといって、第一印象がわるくなったわけではない。(つづく)

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