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コラム 眼の記憶


2004年2月16日

京都新宿区大久保・百人町地区にはわたしの仕事場があります。この地区が、「多文化多民族のまち」、「エスニック料理のまち」などとよばれるようになって、もう20年ほどになるでしょうか。ひところは、アジアやラテンアメリカの女性たちが路地に立ちならぶ「性風俗のまち」としても名を馳せました。いまでもその片鱗はあります。この地区には、登録人口で6000人を超える外国人が住んでいて、地区全人口の約30%を占めています(2002年現在)。外国人登録をしていない人は正確には数えられませんが、それもふくめると、外国人人口は40%を超えるだろうといわれています。そのうちの90%ちかくがアジア人です。そんなこのまちを、わが友、風俗ライターの伊藤裕作は、「歌舞伎町のへり、アジアのへそ」と喝破しました。



▲「アジアのへそ」の玄関口、JR山手線/新大久保駅


の界隈で探偵稼業を営む、通称ヤクモとよばれている便利屋に印象を訊くと、「このまちを終焉の地としたラフカディオ・ハーン=小泉八雲は、『まちにはそれぞれ特徴的な音がある』といいました。このまちの特徴的な音は重なり合った多言語の声です。明治通りから、小滝橋通りまで、東西1212メートルの大久保通りや、このまちを歌舞伎町と隔てる川のような職安通りをひと歩きすれば、あなたの耳に、アジアのさまざまな言葉がとびこんできます。アジアのさまざまな国や地域からやってきた男と女の行き交いが見られます。このまちへは、JR大久保駅や新大久保駅が利用できますが、新宿から歌舞伎町を突っ切って歩いてくることをお奨めします」と、なにやらツアー・ガイド風です。

 創業が1930年という和菓子屋の二代目旦那に尋ねると、「歌舞伎町の裏にあたるこの地域は、『もとすり横丁(店を出しても元をすってしまう)』といわれた頃もあったねえ」などという話がかえってきました。また、この地域の古刹(1594年に開かれた)の住職は、「このまちはカオスですね。いろんなものが混ざって、ごった煮になっているという感じですね」と、宣います。なるほど、ラヴホテルがならぶ隣に専門学校があって、娘の学校参観にきた父親が眼を剥いたという話がのこっています。



▲多言語の声が交錯するカオスのまち、大久保


 このまちの歴史に詳しい文筆家によれば、「この辺りから東寄りの戸山町、市ヶ谷一帯までは、大名の下屋敷が多くあって、明治以後、そのほとんどが陸軍用地となりました。そのこともあり、第二次世界大戦中までは軍人の高官が住む所でした。しかし、戦後60年近くの間に、街筋は外観上はあまり変わっていませんが、商店街の構成はかなり変化してきています。戦後のこのまちの変貌は歌舞伎町との関係が深く、歓楽街の夜の仕事に従事する人びとが電車に乗らずに帰宅できるベッドタウンとなったのが、職安通りをはさんだ、北側のこのまち一帯でした。1980年代以降、近隣のアジア諸国を中心に世界から仕事・留学などの新たな機会を求めてやってくる人びとの波が、一気に押し寄せてきたのです。その後、世代の変化が進むにつれ、留学生として来日した人たちのなかには、大久保・百人町界隈で起業家となり、根を下ろす人たちも増えてきました。ビジネスチャンスの場所としての新たな選択の地となっているのです」と、なります。(共住懇資料No.1『多文化のまち 大久保から視えるもの』より)。

たしが、このまちと積極的にかかわりをもつようになったのは2001年の春からです。神戸で撮った『多民族社会の風』(99年製作)というドキュメンタリー映画の上映会を、共住懇やまち居住研究会の人たちが開いてくれたのがきっかけです。それまでに大久保・百人町を知らなかったわけではないのですが、なかなか、「職安通りという川」をわたって、このまちへ入っていくことはありませんでした。映画『多民族社会の風』に押されて、神戸から「歌舞伎町のへり、アジアのへそ」へとやってきました。ことしは、前述の自称“アジアの探偵”ヤクモといっしょにこのまちを彷徨しようと思っています。

(この項つづく)


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