青池憲司のコラム 目の記憶連載第1回

2003年10月15日

 阪神大震災から8年8か月の日日がすぎました。1995年1月26日、震災10日目の神戸市長田区野田北部・鷹取地区に入り、99年5月まで4年4か月にわたって住民の復興活動を記録しつづけた、わたしたち野田北部を記録する会が、その全撮影を終了し撮影基地を撤退してからも、おなじく4年4か月が経過しました。大地震から撮影を終了した99年5月までの4年4か月と、その後の4年4か月。この数字に特別な意味はありません。わたしが、思い立って、99年5月以降の「被災地KOBE」のこと、いまから1年2か月後にやってくる阪神大震災10年へむけた「KOBE」住民の取り組みのこと、いま関心をもっている東京新宿・大久保のことなど、つまりは、「KOBE」に触発されて考えていることをかいてみようと、きもちがうごきはじめたのが、そういう数字の、ちょうどいまだったということです。

 「被災地KOBE」あるいは「KOBE」とかきました。これは、阪神大震災で被災した10市10町のことです。これらの地域を総称して、このコラムでは象徴的にKOBEと表記します。連載コラム「眼の記憶」は月に2回、月初めと月半ばに発表するつもりです。

 被災地KOBEはいまだ復興途上にあります。復興とは、もちろん、震災前のまちへもどることではありません。「まだ見ぬ新しいまち」をめざしての復興です。震災で壊れてしまったかたちの見えるもの、震災で失ってしまったかたちの見えないもの、そのいずれもがいま復興の途上にあります。震災後8年余を経て、なお、KOBEの人たちは「まだ見ぬ新しいまちづくり」の意志を持続しています。持続している新しいまちづくりの意志、それは、本震の揺れの直後、まだ余震がつづくさなかからはじまった住民の自発性に基づく活動です。人びとは、倒壊した家のなかから、あるいは自力で脱出し、あるいは助け出され、助けられた人はその隣人を助け、自助と互助で数日を過ごしたのでした。この行為自体はきわめて自然に、人間の本然として展開したのだろうと思います。

 そして、その体験を意識的にとらえかえすことで、個人とコミュニティの関係を、自律と協働の環に組み立てていったのが、震災復興活動の住民運動体としてつくられた「まちづくり協議会」だと、わたしは考えます。コミュニティづくりは美しき利他主義では成立しません。利己主義が出てきます。両方が個人の内部でぶつかりあい、ある配分になり、それがそれぞれの人の意見と行動になって外部(たとえば住民集会など)へと現れていきます。そこでは、画一的に利他が大勢を占めることはなく、ましてや、利己が優勢になることもありません。つねに流動的に衝突しています。だれもが思います。自分と家族の一日でも早い復興と安定をはかりたい、しかし、自分だけがきれいな家を建ててもしかたがないではないか。その葛藤のダイナミズムを、「自律と協働の環」に発展させていったのが、まちづくり協議会のもつ運動性でした。

 このようにみてくると、まちづくり協議会を中心にした住民活動の方法は、非常時KOBEの復興まちづくりにとどまらず、列島中の平時のコミュニティづくりにとっても有効な普遍性をもっている、と考えられます。わたしが、いまだにKOBEにこだわり、これからもKOBEから眼をはなさないのは、KOBEの人たちが、倦まずたゆまず、「まだ見ぬ新しいまちづくり」の意志を持続し、実践を継続し、そのことを列島中に発信しつづけているからです。KOBEを見る眼にさらに磨きをかけねばなりません。

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